戦史と世相ーシリーズ③ 「銃後の女性たち」昭和13年(1938年)~昭和15年(1940年)

大東亜戦争日中戦争)の長期化で、総力戦の遂行が必要になった。このような事態向けて、昭和13年(1938年)第一次近衛内閣において、「国家総動員法」が制定された。。この法律は、人、物すべての資源を政府が統制し、運用できるとした法律である。昭和21年(1946年)4月1日に廃止された。

 かくして国民の生活は否応なしに戦争へと組み込まれていったのである。

 こうした中、昭和13年(1938年)6月11日から10月27日の間、日中戦争の一つの節目とされる「武漢作戦」が展開される。武漢三鎮攻略戦とも呼ばれる。武漢まで戦線を広げた日本軍は、首都重慶の攻略が、天然の要害に阻まれ手詰まり、終結への道筋の見えない泥沼戦争へとのめり込んでゆく。武漢は、昭和13年(1938年)日本軍に占領されるのであるが、第二次世界大戦後、中華民国の統治下に一旦復帰、昭和24年(1949年)5月に国共内戦で、中国人民解放軍に攻略されることになる。

 はたして当時の軍部は、武漢攻略に何を見ていたのだろうか。

 太平洋戦争・日中戦争後期、昭和19年(1944年)12月17日には、日本の勢力下だった漢口(現武漢市の一部)が、アメリカ陸軍航空軍にによって攻撃され、日本陸軍の防空戦闘機隊が大きな損害を受ける。アメリカ軍がB-29爆撃機焼夷弾を用いた大規模な都市爆撃であり、その後の日本本土空襲で焼夷弾を使った絨毯爆撃の参考になったといわれる。

 日中戦争で中国各地を占領した日本軍は、太平洋戦争開始後も中国戦線で多くの重要都市を占領下に置いて行ったのである。

 かかる戦時下、天皇への忠誠を誓わせるため、皇居の方向に向かって、敬礼(遥拝、拝礼)をする、いわゆる皇居遥拝が行われたのである。日本国内(内地)、外地、外国を問わずに行われ、とりわけ第二次世界大戦中には、盛んにおこなわれたという。

 一方、戦時中、夫の戦死した家庭の生活はどのように保証されていたのだろうか。

戦前の日本は公的な年金や遺族年金、健康保険はほとんど未整備で、家族や親族で助け合うか、自前で対策するしかなかったようである。いちばん悲惨なのが、戦場で大けがをして障害者になって生還した場合、家族で面倒を見るのが基本とされたというから、ただただ痛ましい話である。

 皆さんは、お目にかかったことがあるだろうか?

白衣を着た傷痍軍人が、街角に立って寄付を募っている姿を?

一方では、軍人恩給や遺族年金で結構な金額をもらった元軍人や遺族がたくさんいたというが、これらはほとんどが職業軍人であって、徴兵された民間人は恩給の受給資格が無いのが普通であったという。

 最後に、兵士の思う”正月”に触れて今日は終わる。

海軍航空兵として太平洋戦争で戦死した松田俊郎さん(享年19歳)、練習生時代から亡くなるまでの3年余に、富山市の家族に宛てた手紙とハガキおよそ60通が、親族宅に残されているという。

「世の中に飛行機ほど、乗り心地の良い乗り物はないだろうと思いました。十里四方一望の中に眺め尽くせ、実に壮快でした」

「十九歳の春を迎え、第一線に出る日も遠くはないと思って居ります」

「この大戦争下に海の荒鷲としてご奉公できる方が余程男としてやり甲斐の有ること」

「第一線の異郷の地にて正月を迎えました。内地の正月風景が幻の如くに思い出されてきます」・・・

Bohemian 

最後まで誠意をもって貫き通すこと、一つの方針・方法・態度で、始めから終わりまで貫き通すこととある、これが「至誠一貫」である。

 大関昇進を決めた正代の伝達式での口上は「至誠一貫」であった。

かねてから相撲の旨い力士だなあと、大変僭越だが、長い相撲ファンの目には映っていた。熊本農高では国体を制した、東京農大2年では学生横綱に輝いた。それでも一つ突き抜けられずにもどかしさを感じていた。

人柄の良さが、プロの水にはじかれたのだろうか。

綱を狙うには、「かち上げ」が鍵だという。

正代関よ、あなたは勝負師なのです。どこまで勝ちにこだわるか。

もしかしたら、一つの方法に修正が必要な時がくるのかもしれませんね。

私は、正代関のような品格のある関取が大好きです。

熊本への郷土愛、それはとても素晴らしく、熊本の方がうらやましいとも思います。

さらにさらに、日本相撲協会の至宝として、相撲史に名をなす力士となってください。

陰ながら、祈っています。

新聞の記事の下に、再十両に宇良とありました。宇良関は家内も大のファンです。

元小結の常幸龍も再十両とありました。来場所がまた楽しみです。