戦史と世相ーシリーズ② 「赤紙の届く日」昭和11年(1936年)~昭和12年(1937年)

日本軍の北平(北京)攻撃開始が、1937年(昭和12年)7月下旬のことである。29日には、日本軍が北平を占領、10月12日、北平を北京と改名、12月14日には中華民国臨時政府が誕生する。1945年(昭和20年)8月15日の日本敗戦まで占領は継続する。そして10月10日、故宮太和殿において、日本北支方面軍司令官根本博中将が、降書と軍刀を提示して日本の占領時代が終了する。

 この間、1937年(昭和12年)8月13日からの中華民国軍の「日本租界」への攻撃に端を発する第二次上海事変が起こり、この事変の勃発によって北支事変は支那事変へと拡大、日中全面戦争に発展してゆく。 

 日本租界は、中国(清朝)がアヘン戦争でイギリスに敗北し、1842年(天保13年)の南京条約で開港した上海に置かれた上海租界の一角である。ちなみに租界とは外国人の居留地のことである。

 我が国の軍隊は世々天皇の統率し給ふ所にそある昔神武天皇〇つから大伴物部の兵ともを率ゐ・・・ 

一、軍人は忠節を盡すを本分とすべし  

この軍人勅諭を旨に、戦場においてなお皇居を遥拝する時代でありました。

 ところで「軍隊手帳」をご覧になったことはありますでしょうか。

 私は、家内の叔父の遺品の中から、手に取る機会がありました。表紙をめくると軍人勅諭が朱書、次に氏名、生年月日、出身、軍隊での所属が記載、さらに軍隊での履歴が、ページを進めると、戦死或いは病死の欄に、昭和17年7月8日戦死とありました。叔父は、昭和17年、独立混成第5旅団独立歩兵第20大隊第3中隊要員現役兵として歩兵第60朕隊機関砲中隊に入営大東亜戦争に従軍同年7月8日支那山東省牟平県大龍口付近の戦闘において右胸部穿透性貫通銃創を受傷、戦死したのである。

 住まい近くの神社にある慰霊碑に、名前が刻まれている。神社参拝の際には必ず手を合わせています。

 軍功叙勲の勲章や当時の模様を伝える新聞などと共に、郷土の博物館に寄贈、その魂や永々として生きながらえてほしいものと思っています。

 行年22歳という若さでした。

Bohemian

人に話を聞いてもらう。それだけ!?

何か具体的なアドバイスがもらえないと「意味ないかな」と多くの人が思いがちだ。

ところで「精神対話士」という職業をご存じだろうか。

かの養老孟司先生が顧問を務める「一般財団法人メンタルケア協会」に、その講座がある。さまざまな理由から、孤独感や孤立感を抱える人が増加傾向にある現代社会、メンタルの不調を予防し、生きがいを持つために「対話」を通して、それらの問題を解決するためのものである。

 かつて興味を感じ、関連の図書を求めてじっくりと読みふけったことがある。閉ざされた心の窓を開くために、聞いてあげる、ひたすら聞いてあげる、辛抱強く聞いてあげるのだという。それは「こうよ」とは決して言わない。ひたすら聞いてあげるのだという。

「酒は涙かため息か 心の憂さのすてどころ」という歌がある。

心の憂さを貯めすぎるとどうなりますか。

心の憂さは吐き出すにかぎるのです。

ずっと、心が軽くなりますよ。

そうして心が軽くなったら、自ら解決を導くのです。

その本から、そう学びました。

結構、人の役にたちますよ。

人助けになったら幸いー

よかったら一読をおススメします。