アジア太平洋戦争の戦跡ー「シンガポール=マレーシア」編

 



アジア太平洋戦争はハワイ・真珠湾の攻撃によって開始したわけではない。時間的には真珠湾攻撃の1時間50分前に、当時はイギリス領だったマレー半島コタバル(現マレーシア)上陸を開始していたのである。昭和16年(1941年)12月8日のことである。

 そして日本軍は、昭和17年(1942年)1月にクアラルンプールを占領、イギリスによって構築された難攻不落の要塞・シンガポールを目指したのである。

 ここシンガポールは、第二次世界大戦における、連合軍による初めての合同司令部のおかれたところである。アメリカ合衆国、イギリス、オランダ、オーストラリア連合司令部の結節点であったのである。

 この要衝の獲得によって、日本軍は、アジア太平洋戦争の機先を制しようと考えたのである。

 大日本帝国陸軍第25軍司令官は山下奉文中将である。指揮下に、西村琢磨中将率いる近衛師団、松井太久郎中将の第5師団、牟田口廉也中将の第18師団の3師団によって構成され、3万強の戦闘部隊であった。

 数の上では連合軍に劣っていた日本軍であったが、経験、装備の上ではるかに勝っていたという。これをさらに、第59戦隊と第64戦隊の最新鋭の戦闘機が援護をしたのである。

 昭和17年(1942年)2月15日、イギリス極東軍事司令官パーシバル中将は、無条件降伏をするのである。

 かくして日本軍によるシンガポール統治が始まるのである。

日本侵略までのマレーシアとシンガポールは、「イギリス領マラヤ」と呼ばれ、ポルトガル、オランダの植民地のあと、1900年(明治33年)代初頭には全土がイギリスの植民地になっていたのである。

 植民地化後のイギリスの移民政策によって華僑(中国人)やインド人が流入、太平洋戦争開始前には華僑がマレー人の人口をしのいでいたという。

 移民政策による優遇を受けていた華僑とインド人は、錫(すず)と天然ゴム産業というこの地域の主産業を独占、その不遇の中から、マレー人の独立志向が日に日につのっていったのである。

  日本軍対連合軍の一方で、日中戦争のさなかでもあり、多くの華僑(中国人)が抗日的であったことから、日本軍は華僑への弾圧を強めたのである。

 この華僑によって妹が殺された怒りにも後押しされ、大日本帝国陸軍に協力した義賊が谷豊という現地在住の日本人である。父親が現地で理髪店を営んでいた。いまだご記憶の方もたくさんいらっしゃると思いますが、昭和35年(1960年)4月5日ー昭和36年(1961年)6月27日まで、日本テレビ系で放送されたテレビ映画「快傑ハリマオ」である

「空のはてに十字星 きらめく星のそのように

 七つの海をかけめぐり・・・・・」

三橋美智也が歌ったあの”ハリマオ”である。

 日本軍による華僑への弾圧によって、5千人の華僑が殺害されたというのが日本における一般的な見方のようであるが、シンガポールの華僑たちは4万人、あるいは5万人とする説がいわれているようである。ともかく華僑は日本の占領以前から、マレー人をはじめ異民族に対しては、暴力的な態度でふるまっていたようである。

  シンガポール占領後の日本軍は、虐殺対象者をトラックで人気のない海岸へ運んで、まとめて殺害したといわれている。

 昭和36年(1961年)12月、イーストコースとの工事現場から、白骨が続々と発掘され結局、発掘は全島にわたり、大虐殺事件の実相が明らかになったようである。

 日本に対し血債の償いを求める集会が開かれ、昭和42年(1967年)に記念碑が完成を見るのである。

 これがシンガポールの「血債の塔」である。シンガポールの戦争記念公園内に、クリーム色をした4本の柱がそびえ立つ「日本占領時期死難人民記念碑」であり、いわゆる「血債の塔」である。

 虐殺は5万人にのぼるというのがシンガポールおける「共通の認識」のようである。

シンガポールにおける”戦の跡”もまた心痛むばかりである。

戦時下とはいえ、はたして人はこうまでも非情になれるものなのだろうか。

(了)

 

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