日本戦史の極点「盧溝橋事件」とその前後

そもそもの起こりは、朝鮮東学党の乱への日本と清国の対応、支配権を争った両国の戦争である。戦争国日本は、遼東半島や台湾の割譲など戦果を収めるが、日清講和条約下関条約)締結のわずか6日後の明治28年(1895年)4月23日、ロシア、ドイツ、フランスの、いわゆる三国干渉を受けて、遼東半島放棄を決定、還付の代償として清国から庫平銀3000万両を得ることになる。ただ、この勝利によって、極東における帝国主義諸国との対立や葛藤に巻き込まれることになってゆくのである。

こののち、日本は、朝鮮および満州の支配権をめぐる対立から、日露戦争を戦いこれを勝利。

そうして、関東軍は、満州の中国からの独立を計るため、昭和3年(1928年)6月4日、中華民国陸海軍大元帥張作霖の爆殺事件を起こすのである。

 続いて、昭和6年(1931年)9月18日の柳条湖事件満州事変)、昭和7年(1932年)3月の満州国建国、昭和8年(1933年)5月3日のタンクー停戦協定で中国本土からの分離が暗黙の了解になってゆく。

しかし、昭和12年(1937年)、中国の国民政府を代表する蒋介石は、「満州を失ってから、すでに6年、我々の忍耐にも限界があるとして、徹底抗戦」を表明、この7月の盧溝橋事件を端緒にして、日中戦争に突入していったのである。

8月には戦火は上海に飛び火、さらに日本軍は、国民政府の首都南京にも爆撃、昭和15年(1940年)3月には、重慶を脱出して南京に戻った、国民政府の要人汪兆銘に呼びかけて南京政府を樹立、中国を代表する唯一の政府とし、満州国を加えて日満支三国共同宣言を発し、東亜新秩序の完成を内外に宣したのである。

一方、華北では共産党のは八路軍の攻勢によって、日本の掲げる「長期持久態勢」は、中国という広大な土地や膨大な人口には抗すべくもなく、他方で、蒋介石政府を支援する、いわゆる援蒋ルート(ビルマ・ロード委)へのアメリカ、イギリスに対する批判の噴出から、昭和16年(1941年)ついに日本は真珠湾攻撃に踏み切って、太平洋戦争を開始するのである。

 そもそもの淵源には、日本において、明治政府成立からまもなく朝鮮進出政策が重要な対外政策とされ、明治8年(1875年)には江華島(こうかとう)事件を引き起こし、翌1876年には朝鮮に対して不平等な日朝修好条規を結ばせたことにある。

朝鮮では、豊臣秀吉朝鮮侵略による民族的苦痛が長く記憶されているのだという。

江華島事件=明治8年(1875年)9月20日、朝鮮半島の西沿岸で、水路測量の名目で示威活動をしていた日本艦「雲揚」の端艇が江華島付近で、チョウォチン(草芝鎮)砲台から砲撃されて応戦した事件。