戦史と世相ーシリーズ⑤ 「若き兵士たちの悲劇」昭和18年(1943年)~昭和19年(1944年)
第3次近衛内閣の後を受け、太平洋戦争中の大方の期間を東条英機が内閣総理大臣をつとめた。昭和16年(1941年)10月18日~昭和19年(1944年)7月22日である。東条は、戦争の収束をつけられぬまま総辞職、終戦への繋ぎ内閣として小磯國昭が内閣総理大臣になったのである。海軍の米内光政が副総理格となって、実質的に連立内閣を組むことになる。さらに、昭和20年(1945年)4月には鈴木貫太郎内閣が成立して、終戦確定のため、昭和天皇の「聖断」が下されることになる。
昭和19年(1944年)8月には、東京、大阪、名古屋、横浜などの大都市の国民学校初等科の児童を郊外の農産村に、戦火を避けさせるために移動。いわゆる学童疎開であり、学校単位で実施され、1945年の疎開児童数は45万人に達したといわれる。
この年11月24日以降には、東京都は106回の空襲を受け、翌昭和20(1945年)には都合5回を数える大規模な空襲を受けることになる。とりわけこの年3月10日の空襲では、死者数が10万人以上といわれ、「東京大空襲」と呼ばれる。
他方、この敗戦まじかの時期、海軍の人事は、米内光政海軍大臣、連合艦隊司令長官が井上成美でした。これに加えて、ブーゲンビル島で撃墜されて戦死した山本五十六の3名は、三国同盟、日米開戦に反対した「海軍トリオ」でありました。
米内、井上の2人が海軍の重要ポストに就いた理由は、海軍の終戦工作表明にあるようです。この点から、終戦工作を進める海軍に戦力が残っていてはうまくないとの判断から、いささかまわりくどくなりましたが、政治的に決断によって、かの「戦艦大和」が沈められたといわれます。