戦史と世相ーシリーズ⑤ 「若き兵士たちの悲劇」昭和18年(1943年)~昭和19年(1944年)

昭和18年(1943年)11月20日(~11月23日)にはギルバート諸島ブタリタリ環礁において、日本軍守備隊とアメリカ軍との戦闘が行われた。いわゆるのマキンの戦いである。

翌11月21日(~11月23日)からは、同じギルバート諸島のタラワ環礁において、日本軍守備隊とアメリ海兵隊との間で戦闘が行われた。近代戦史上初めての、正面からの水陸両用強襲作戦といわれる、いわゆるタラワの戦いである。「恐怖のタラワ」と呼ばれ、この戦いによって、アメリカ軍は大きな損害をこうむったとされる。

これらの少し前、昭和18年(1943年)11月5日、6日には、当時の日本の同盟国や、日本が旧宗主国を放逐したことによって独立とされたアジアの国々の国政の最高責任者を招いて、アジア地域の首脳会談、いわゆる「大東亜会議」が東京で開催された。

東条総理が占領地の民心掌握を方策としたのに対し、重光葵外相には、和平や戦後構想に向けて、長年欧米諸国の植民地として摂取されていた各国の独立構想があったといわれる

翌昭和19年(1944年)3月(~7月初旬)には、大東亜戦争ビルマ戦線において、帝国陸軍インパール作戦が始められる。イギリス領インド帝国北東部のインパールを目指したものである。牟田口廉也中将の強引な主張によって決行、兵站を無視した杜撰な作戦だったという。参加したほとんどの兵士が死亡、歴史的な敗北を喫したため、「史上最悪の作戦」といわれる。

そして、同年4月17日からは12月10日にかけては、「大陸打通作戦」(たいりくだつうさくせん)が、中国大陸で展開される。中国内陸部の連合国軍の航空基地の占領を目的とし、併せて、当時日本の占領下にあったフランス領インドシナへの陸路を開くことを目的としたものである。日本側の投入総兵力50万人、戦車800台、7万の騎馬を動員、作戦距離2400㎞にも及び、日本陸軍における史上最大規模の作戦であったという。

同年6月15日(~7月9日)には、「サイパンの戦い」が。マリアナ諸島サイパン島におけるアメリカ軍と日本軍の戦闘である。戦闘の末、日本軍は全滅。

日本の絶対防衛圏が破壊されたのである。

マリアナ諸島は、アメリカ軍の新型爆撃機B-29の展開によれば、日本本土の大部分が攻撃圏内に入るため、極めて重要な位置なのであった。

事実、同年6月16日の八幡空襲を手始めに、日本本土空襲開始直前の状態にあったという。

他方、昭和19年(1944年)8月には、女子挺身勤労令によって、12歳~40歳の内地(国内)の女性が、強制的に職場を配置換えするなどして、工場などでの勤労労働に従事したのである。「女子挺身隊」と呼ばれた。翌昭和20年(1945年)には、国民勤労動員令によって、国民義勇隊へと改組されていったのである。

 

宮城県第一高等女学校(現宮城一高)の生徒たちによる動員の記録集「海鳴りの響きは遠く」には、弾丸を磨く作業中の大けがやジフテリアにかかるなどの生々しい体験が描かれているという。

特攻隊員が乗り込んで敵艦に突撃する噴進器に火薬を詰めた生徒は、「悲愴な気持ちで作業を続けるほかなかった」と。

昭和19年(1944年)の出来事を拾ってみよう。

1月26日、 東京、名古屋に初の疎開(建築物強制取り壊し)命令。

2月     東京都が百貨店などを利用して雑炊食堂を開設。

2月23日、 毎日新聞の「竹槍では間に合わぬ、飛行機だ」の記事に東条首相激怒

3月4日、  宝塚歌劇団の最終公演にファンが殺到し大混乱となる。

3月5日、  歌舞伎座南座など休場。

3月6日、  用紙不足のため新聞の夕刊廃止。11月には朝刊が2頁に。

3月21日、 松竹少女歌劇団が解散。松竹芸能女子挺身隊を結成。

4月1日、  大都市の国民学校学童に給食開始。9月からパン食のみ。

5月5日、  国民酒場が開設される。

6月23日、 北海道洞爺湖南岸で大噴火、新山できる(昭和新山)。

7月     紙不足で煙草がバラ売りに。

 

8月     青果類、魚類、保存食、食肉類、調味食が隣組による配給制に。

8月1日、  砂糖の家庭用配給停止。

8月4日、  学童疎開の第1陣が上野を出発。

11月24日、B29約70機が最初の東京空襲。29日には初の夜間飛行。

12月7日、 東海地方に大地震津波が襲い大被害が発生。