もっと身近に政治を、くるか政治の季節?
データ改竄、情報の隠匿が長く続いた。
私を含めてごく普通の国民の「自我」の覚醒が待たれる。
政治の課題は、当然のことながら、すべて国民の生活に関わることである。
政権中枢のなすがままに、流れに委せればいいというものではない。ただしかし、一般の日常は、生きるために無我夢中である。そこに、政治との距離が出来やすいことは、無理のないことである。なかなかに心の余裕は産み難いものだ。
だが時折は、思考を巡らさなければならない。
考えてみれば、政治の執行現場というものは、常に壮大な執政の「実験の場」でもある。かってその実験に”失敗”したとされる政権があった。一方で、お友達内閣などと揶揄される政権もある。
落ち着いてここでよく考えたい。”失敗”の中に見た「光」を、他方、お友達は必ずしも悪いのかを。失敗の構成要件の中に、果たして、一つに纏まりきれない”愚かさ”と”未熟さを”どこまで自覚していたのかも。
改めて考えて見よう。小選挙区制は、二大政党の拮抗のためのものだ。
初めての政権で、政治的手練手管に未熟さもあったろう。俯瞰すれば、それでもなお、大きな勢力が政権交代を繰り返しながら、結果産物として、真の民主主義が根付いていくものと思う。
当事者になれば、新たな火を噴くこともある。ここは、善し悪しはともかくとして
「交代」という循環のための、まさしく政党選択を待ちたい。かかる極度の緊張感のなかでこそ、いずれが政権を担当するにしろ、国民の声が反映されることになる。
長いことが、必ずしも安定を意味しないことを、いみじくも今時の政治史が実証して見せてくれたような気がする。
どういう勢力が政権を担当するにしろ、良いは良い、ダメはダメ、しっかりと国民として意思を表示しなければならない。
それぞれの勢力のどちらが、より清涼飲料水かで、次回の選挙は投票しようと思う。
かって、池田勇人総理は、「寛容」と「忍耐」といった。最近は、死語になったのだろうか。あまり聞かない。そして、身の処し方には深謀遠慮、沈思黙考が大切なのである。
かって、かのマザー・テレサは「言葉が多すぎます」といったそうだ。
思考に気をつけなさいそれはいつか言葉になるから
言葉に気をつけなさいそれはいつか行動になるから
・・・・・
性格に気をつけなさいそれはいつか運命になるから・・・・と。
早晩、ポストコロナの運命を決する政治の季節は、間違いなくやってくる。
人は失敗を繰り返しながら成長していくのである。そうして、壮大なドラマは、国民の寛容の前で実現するのである。
国民の「自我」の覚醒が待たれる。
マスコミの報道に沿って、判断するのではない。あくまでも自らの意思において判断することが大切である。大切な命、だれのものでもない自身の命。
丁寧に、逃げずに、率直に。
政治は、あなたの生活、あなたの人生なのだから。
(了)