戦史と世相ーシリーズ⑥ 「本土決戦~一億玉砕」昭和20年(1945年)

昭和19年(1944年)6月19日(~20日)には、マリアナ諸島沖とパラオ諸島沖で日本海軍とアメリカ海軍の海戦、いわゆるマリアナ沖海戦が展開される。日本海軍は、空母3隻、搭載機、出撃潜水艦に多大な損失を喫し、空母部隊による戦闘能力を喪失したのである。

日本軍の目論んだ太平洋戦争短期決着は失敗、昭和18年(1943年)11月のタラワ島とマキン島の戦いによるギルバート諸島占領をさらに進め、昭和19年(1944年)2月にはクェゼリンおよびエニウェトクの戦いによってマーシャル諸島を占領、3月には、パラオ大空襲で、日本の、在泊艦艇や基地施設に甚大な損害を与えたのである。

一方、昭和19年(1944年)10月10日には、米軍の空母から1356機の航空機が出動、琉球列島全域が爆撃を受けるという、大規模な空襲を受けている。そして、翌昭和20年(1945年)3月下旬には、沖縄への米軍本格上陸が開始されるのである。

琉球列島爆撃の10日後、昭和19年(1944年)10月20日(~25日)には、フィリピン周辺の広大な海域に、日本海軍とアメリカ海軍・オーストラリア海軍との海戦が展開される。シブヤン海海戦、スリガオ海峡海戦、エンガノ岬沖海戦、サマール沖海戦を総称したいわゆるレイテ沖海戦である。

神風特別攻撃隊が初めて組織的に運用されたといい、日本艦隊の艦隊戦力は、レイテ沖海戦で事実上消滅したという。

このレイテ沖海戦における日本軍の艦隊能力低下に伴って、アメリカ軍は、硫黄島攻略、沖縄上陸戦略を進めることになる。

そして、昭和20年(1945年)2月19日、アメリ海兵隊硫黄島強襲が開始される。3月21日、日本の大本営は17日に硫黄島守備隊の玉砕を発表する。硫黄島小笠原諸島である。

硫黄島の玉砕によって、日米の組織的戦闘は終結したのである。

Bohemian

先日、戦争体験者の証言を記事で読んだ。

平和な家庭の食卓に、いつものようにポストから取り込んだ新聞が置かれている。

今日の新聞にはどんなニュースが掲載されているだろうか。

新聞は広い世界、深い洞察への「窓」である。

1943年(昭和18年)に満蒙開拓団として、家族で中国東北部へ渡った方の記憶である。

入植先は、中国人代々の大切な土地だったという。そして中国人を「苦力(クーリー)」と呼んで働かせていた、と。やがて、昭和20年(1945年)7月、父君は、旧満州の部隊に所属し、応召。そうして、ソ連軍の侵攻を知った苦力(クーリー)の空気が変わる。8月15日、苦力が村を襲ってきたという。翌16日、開拓団員が一団となって逃げる。その途次、中国人集落で夜を徹しての銃撃戦に見舞われ、開拓団員らは、中国人の家に火をつけ、逃げ惑う黒い影を撃ったという。

文脈は外すが、

① 命乞いをする中国人の老夫婦をおじいさんの首に刀を、おばあさんの腹をヤリでついたという。

② 逃げる途次、身動きがとれなくなった。「病人、歩けない人、5歳以下の子どもは全員処分せよ」と団長からの命令。

「母が2歳の末弟の首を絞めて殺し、5歳の妹を川に放り投げた。母の目はつり上がっていた」と。

逃避行の生き地獄ー敗戦の後、国と日本陸軍部隊・関東軍に見捨てられた開拓団の女性や子どもに向けられた結果だという。

「日本が二度と戦争をしないために、お上の言うことをうのみするのは危険だ。一人ひとりがしっかりと考えないといけない」と、結んでいる。

平和な家庭の食卓、赤裸々な戦争体験の告白、このコントラストはいかにもきついが、

間違いなく、その時、われらの祖先が、かの「満州」にいたのである。

ひとつの国家のなかに、加害者と被害者が共存したのである。

 

 

 

戦史と世相ーシリーズ⑤ 「若き兵士たちの悲劇」昭和18年(1943年)~昭和19年(1944年)

第3次近衛内閣の後を受け、太平洋戦争中の大方の期間を東条英機内閣総理大臣をつとめた。昭和16年(1941年)10月18日~昭和19年(1944年)7月22日である。東条は、戦争の収束をつけられぬまま総辞職、終戦への繋ぎ内閣として小磯國昭が内閣総理大臣になったのである。海軍の米内光政が副総理格となって、実質的に連立内閣を組むことになる。さらに、昭和20年(1945年)4月には鈴木貫太郎内閣が成立して、終戦確定のため、昭和天皇の「聖断」が下されることになる。

昭和19年(1944年)8月には、東京、大阪、名古屋、横浜などの大都市の国民学校初等科の児童を郊外の農産村に、戦火を避けさせるために移動。いわゆる学童疎開であり、学校単位で実施され、1945年の疎開児童数は45万人に達したといわれる。

この年11月24日以降には、東京都は106回の空襲を受け、翌昭和20(1945年)には都合5回を数える大規模な空襲を受けることになる。とりわけこの年3月10日の空襲では、死者数が10万人以上といわれ、「東京大空襲」と呼ばれる。

他方、この敗戦まじかの時期、海軍の人事は、米内光政海軍大臣連合艦隊司令長官が井上成美であった。これに加えて、ブーゲンビル島で撃墜されて戦死した山本五十六の3名は、三国同盟、日米開戦に反対した「海軍トリオ」と呼ばれる人たちである。

総じて、陸軍の暴走、海軍の抑制との感が拭えない。

米内、井上の2人が海軍の重要ポストに就いた理由は、海軍の終戦工作表明にあるようである。この点から、終戦工作を進める海軍に戦力が残っていてはうまくないとの判断から、いささかまわりくどくなりましたが、政治的な決断によって、かの「戦艦大和」が沈められたといわれる。

一方、昭和19年(1944年)7月には、特攻兵器「回天」の試作機が完成する。

超大型の魚雷「九三式三型魚雷」を改造し、終戦までに420機が生産されたといわれる。脱出装置がなく、攻撃の成否にかかわらず、出撃はすなわち死を意味したという。

兵士は武器の一部だとでもいうのだろうか。

かくまでした戦いの果てに、日本軍は「何」を見ていたのだろうか。

戦史と世相ーシリーズ⑤ 「若き兵士たちの悲劇」昭和18年(1943年)~昭和19年(1944年)

第3次近衛内閣の後を受け、太平洋戦争中の大方の期間を東条英機内閣総理大臣をつとめた。昭和16年(1941年)10月18日~昭和19年(1944年)7月22日である。東条は、戦争の収束をつけられぬまま総辞職、終戦への繋ぎ内閣として小磯國昭が内閣総理大臣になったのである。海軍の米内光政が副総理格となって、実質的に連立内閣を組むことになる。さらに、昭和20年(1945年)4月には鈴木貫太郎内閣が成立して、終戦確定のため、昭和天皇の「聖断」が下されることになる。

昭和19年(1944年)8月には、東京、大阪、名古屋、横浜などの大都市の国民学校初等科の児童を郊外の農産村に、戦火を避けさせるために移動。いわゆる学童疎開であり、学校単位で実施され、1945年の疎開児童数は45万人に達したといわれる。

この年11月24日以降には、東京都は106回の空襲を受け、翌昭和20(1945年)には都合5回を数える大規模な空襲を受けることになる。とりわけこの年3月10日の空襲では、死者数が10万人以上といわれ、「東京大空襲」と呼ばれる。

他方、この敗戦まじかの時期、海軍の人事は、米内光政海軍大臣連合艦隊司令長官が井上成美でした。これに加えて、ブーゲンビル島で撃墜されて戦死した山本五十六の3名は、三国同盟、日米開戦に反対した「海軍トリオ」でありました。

米内、井上の2人が海軍の重要ポストに就いた理由は、海軍の終戦工作表明にあるようです。この点から、終戦工作を進める海軍に戦力が残っていてはうまくないとの判断から、いささかまわりくどくなりましたが、政治的に決断によって、かの「戦艦大和」が沈められたといわれます。

戦史と世相ーシリーズ⑤ 「若き兵士たちの悲劇」昭和18年(1943年)~昭和19年(1944年)

昭和18年(1943年)11月20日(~11月23日)にはギルバート諸島ブタリタリ環礁において、日本軍守備隊とアメリカ軍との戦闘が行われた。いわゆるのマキンの戦いである。

翌11月21日(~11月23日)からは、同じギルバート諸島のタラワ環礁において、日本軍守備隊とアメリ海兵隊との間で戦闘が行われた。近代戦史上初めての、正面からの水陸両用強襲作戦といわれる、いわゆるタラワの戦いである。「恐怖のタラワ」と呼ばれ、この戦いによって、アメリカ軍は大きな損害をこうむったとされる。

これらの少し前、昭和18年(1943年)11月5日、6日には、当時の日本の同盟国や、日本が旧宗主国を放逐したことによって独立とされたアジアの国々の国政の最高責任者を招いて、アジア地域の首脳会談、いわゆる「大東亜会議」が東京で開催された。

東条総理が占領地の民心掌握を方策としたのに対し、重光葵外相には、和平や戦後構想に向けて、長年欧米諸国の植民地として摂取されていた各国の独立構想があったといわれる

翌昭和19年(1944年)3月(~7月初旬)には、大東亜戦争ビルマ戦線において、帝国陸軍インパール作戦が始められる。イギリス領インド帝国北東部のインパールを目指したものである。牟田口廉也中将の強引な主張によって決行、兵站を無視した杜撰な作戦だったという。参加したほとんどの兵士が死亡、歴史的な敗北を喫したため、「史上最悪の作戦」といわれる。

そして、同年4月17日からは12月10日にかけては、「大陸打通作戦」(たいりくだつうさくせん)が、中国大陸で展開される。中国内陸部の連合国軍の航空基地の占領を目的とし、併せて、当時日本の占領下にあったフランス領インドシナへの陸路を開くことを目的としたものである。日本側の投入総兵力50万人、戦車800台、7万の騎馬を動員、作戦距離2400㎞にも及び、日本陸軍における史上最大規模の作戦であったという。

同年6月15日(~7月9日)には、「サイパンの戦い」が。マリアナ諸島サイパン島におけるアメリカ軍と日本軍の戦闘である。戦闘の末、日本軍は全滅。

日本の絶対防衛圏が破壊されたのである。

マリアナ諸島は、アメリカ軍の新型爆撃機B-29の展開によれば、日本本土の大部分が攻撃圏内に入るため、極めて重要な位置なのであった。

事実、同年6月16日の八幡空襲を手始めに、日本本土空襲開始直前の状態にあったという。

他方、昭和19年(1944年)8月には、女子挺身勤労令によって、12歳~40歳の内地(国内)の女性が、強制的に職場を配置換えするなどして、工場などでの勤労労働に従事したのである。「女子挺身隊」と呼ばれた。翌昭和20年(1945年)には、国民勤労動員令によって、国民義勇隊へと改組されていったのである。

 

宮城県第一高等女学校(現宮城一高)の生徒たちによる動員の記録集「海鳴りの響きは遠く」には、弾丸を磨く作業中の大けがやジフテリアにかかるなどの生々しい体験が描かれているという。

特攻隊員が乗り込んで敵艦に突撃する噴進器に火薬を詰めた生徒は、「悲愴な気持ちで作業を続けるほかなかった」と。

昭和19年(1944年)の出来事を拾ってみよう。

1月26日、 東京、名古屋に初の疎開(建築物強制取り壊し)命令。

2月     東京都が百貨店などを利用して雑炊食堂を開設。

2月23日、 毎日新聞の「竹槍では間に合わぬ、飛行機だ」の記事に東条首相激怒

3月4日、  宝塚歌劇団の最終公演にファンが殺到し大混乱となる。

3月5日、  歌舞伎座南座など休場。

3月6日、  用紙不足のため新聞の夕刊廃止。11月には朝刊が2頁に。

3月21日、 松竹少女歌劇団が解散。松竹芸能女子挺身隊を結成。

4月1日、  大都市の国民学校学童に給食開始。9月からパン食のみ。

5月5日、  国民酒場が開設される。

6月23日、 北海道洞爺湖南岸で大噴火、新山できる(昭和新山)。

7月     紙不足で煙草がバラ売りに。

 

8月     青果類、魚類、保存食、食肉類、調味食が隣組による配給制に。

8月1日、  砂糖の家庭用配給停止。

8月4日、  学童疎開の第1陣が上野を出発。

11月24日、B29約70機が最初の東京空襲。29日には初の夜間飛行。

12月7日、 東海地方に大地震津波が襲い大被害が発生。

 

 

 

 

戦史と世相ーシリーズ⑤ 「若き兵士たちの悲劇」昭和18年(1943年)~昭和19年(1944年)

振武隊は、海軍の特攻隊として先に動き出していた神風特攻隊と歩調を共にするようになっていく。そして沖縄戦開始の昭和20年(1945年)4月1日、第20振武隊を皮切りとして、知覧からの特攻出撃が始まるのである。それ以降、海軍の鹿屋航空基地とともに特攻出撃の最前線となって、陸海軍統合出撃の一翼を担って、アメリカ海軍へ大きな損害を与えてゆく。現在は、つとに有名であるが、歴史博物館として知覧特攻平和会館に、第二次世界大戦末期に編成された大日本帝国陸軍航空隊の特攻関連の資料が展示されている。

 他方、昭和17年(1942年)1月から、南方作戦の一環として、日本軍は、オーストラリア委任統治領・ニューブリテン島を制圧する。ラバウルの戦いである。時を同じくして、日本海軍航空隊は南太平洋諸島の確保やトラック諸島の防衛、機動部隊の支援などを目的にラバウルに進出、この年末には、日本陸軍航空部隊も進出して、ラバウルは重要拠点となってゆくのである。

第一次世界大戦後、「これからは飛行機の時代」という戦術転換の思想が背景にある。

 ざっと近代戦史を通視してみると、

昭和12年(1937年)以来の中華民国との日中戦争、そして昭和16年(1941年)からの米英などの連合国との間における太平洋戦争(大東亜戦争)と戦禍が拡大。

かくして広大な戦線の維持や次第に悪化する戦局に伴い、戦死者が増加、兵力不足が顕著になってゆくのである。

こうした中、もともとは兵役法の規定で、大学・高等学校・専門学校(いずれも旧制)などの学生が26歳まで徴兵を猶予されていたものが、次第に猶予の対象が狭められ、戦場へ送られてゆくようになるのである。

いわゆる学徒出陣・学徒動員である。

まさしく「打ちてし止まん」=敵を打ち砕かずにはおくものか、の世相の中である。

不足は、兵力のみならず武器生産のための金属にも及び、すでに昭和16年(1941年)8月30日に、国家総動員法に基づいて金属回収例令が公布され、官公署、職場、家庭の区別なく根こそぎ回収されたという。昭和18年(1943年)9月には東京で金属非常回収工作隊が結成され、果ては二宮尊徳像までが回収されたという。同年11月には「まだ出し足らぬ家庭鉱」のスローガンのもとで回収がさらに強行されたという。

ところで、昭和18年(1943年)世相を少し拾ってみる。

1月13日、内務省、ジャズなど米英の楽曲約1000曲の演奏およびレコードを禁止

2月3日、 東京の劇場、映画館、交替制で月2回の節電休館を実施

2月    英語の雑誌名を禁止。「サンデー毎日」→「週刊毎日」、「エコノミス    ト」→「経済毎日」、「キング」→「富士」

5月15日、東京丸の内に公衆食堂開業

7月6日、 大政翼賛会、「みたみわれ」を発表、この歌を中心に国民歌唱運動を展開

8月12日、全国のバス、藤鼠色、藍鼠色、国防色の3色のいずれかに塗替え通達

8月20日、陸軍報道部、「愛国いろはがるた」を選定

9月4日、 上野動物園、空襲時の混乱に備えてライオンなどの猛獣を薬殺

9月24日、文部省、すべての学徒体育大会を禁止

10月6日、食糧管理法施行規則を改正、ヤミ米麦の買入者に罰則を新設

10月16日学徒兵壮行のため、戦中最後の早慶戦を安部球場で開催

10月28日商工省、新しい国民食器へ茶わん、湯飲み、各種皿など陶磁器を規格化

11月13日東京都、帝都重要地帯疎開計画を発表

12月13日年末年始の休み廃止を次官会議決定

12月17日競馬開催中止を閣議決定

12月21日都市疎開実施要綱を閣議決定

 

戦史と世相ーシリーズ⑤ 「若き兵士たちの悲劇」昭和18年(1943年)~昭和19年(1944年)

この時期の戦跡を見てみようと思う。

1943年(昭和18年)1.02日本軍、ブナ守備隊、ギルワ守備隊全滅(東部ニューギニア

            1.29レンネル島沖海戦

            2.02ガダルカナル島から撤退開始

            3.02ビスマルク海海戦

            3.27アッツ島沖海戦

            4.07フロリダ沖海戦

            5.29アッツ島守備隊玉砕

            7.05クラ湾海戦

            7.12コロバンカラ島沖海戦

            7.29キスカ撤退作戦

            8.06ベラ湾夜戦

            8.17第一次ベララベラ海戦

            9.06日本軍、サラモア、ラエから撤退

            10.06第二次ベララベラ海戦

            11.02ブーゲンビル島沖海戦

            11.24マキン守備隊玉砕

            11.25タラワ島守備隊玉砕

1944年(昭和19年)1.07大本営インパール作戦認可

            2.06クェぜリン日本軍守備隊玉砕

            2.23ブラウンの日本軍守備隊玉砕

            3.08インパール作戦開始

            4.06第31師団、インパール北方のコヒマを占領

            4.17支那派遣軍大陸打通作戦開始

            6.01第31師団、補給途絶のためコヒマを放棄、撤退

            6.19マリアナ沖海戦

            6.28ビアク島の日本軍守備隊玉砕

            7.05ビルマ方面軍第15師団にインパール作戦中止命令

            7.07サイパン島の日本軍守備隊玉砕

            8.02テニアン島の日本軍守備隊玉砕

            8.11グアム島の日本軍守備隊玉砕

            9.10中国雲南省拉孟の日本軍守備隊玉砕

           10.12台湾沖航空戦

           10.19アンガウル島日本軍守備隊玉砕

           10.23レイテ沖海戦

           10.25海軍に神風特別攻撃隊、初出撃

           11.23ペリリュー島の日本軍守備隊玉砕

これが、昭和18年、19年の戦跡である。

痛ましい玉砕が続いたのである。

※玉砕=軍隊の全滅を指す。大本営の発表に際して用いられ、大義や名誉に殉じたとされる。

 昭和17年(1942年)1月には、大本営は、「ニューギニアおよびソロモン群島の要地の攻略を企画」と決定。同年3月8日、東部ニューギニアのラエ、サラモアを占領した。ここからニューギニアの戦いが始まり、ダグラス・マッカーサー大将の率いる連合軍と、昭和20年(1945年)8月15日の終戦まで続けられたのである。

他方、太平洋戦争直前の昭和16年(1941年)12月、鹿児島県南九州市知覧町に陸軍の飛行場が完成、直ちに大刀洗陸軍飛行学校の分教所となった。そしてここに、最初の入校者78名が到着する。

昭和19年(1944年)夏以降、陸軍航空隊の戦術が艦船への体当たりを柱とする特攻に軸足を転換。昭和20年(1945年)2月、知覧分校は、第6航空軍に隷属する「第7飛行団」となり、ここに知覧特攻基地が誕生、振武隊(しんぶたい)と名付けられた特攻隊が出撃することになるのである。

 

 

戦史と世相ーシリーズ④ 「立ち上がれ小国民」昭和16年(1941年)~昭和18年(1943年)

昭和17年(1942年)4月18日には、アメリカ陸軍航空軍の爆撃機によって、日本本土が初めて空襲を受ける。指揮官ジミー・ドーリットル大佐にちなんで、ドーリットル空襲と呼ばれ、航空母艦ホーネットから発信され、太平洋戦争で初めて日本本土が攻撃された一連の空襲である。

B-25双発爆撃機ミッチェル16機は、東京、横須賀、横浜、名古屋、神戸などに空襲を仕掛け、軍事的には大きな被害ではなかったというが、日本軍に与えた影響は極めて大きかったという。

太平洋戦争の開戦が、前年の12月8日であることを思えば、この時期の、この空襲から日本軍が学ぶべきことは、すこぶる多大であったと思うが、何ゆえに、むしろここから戦争が泥沼化してゆくのか、全く解せない。

そして、同年、昭和17年(1942年)6月5日~7日にかけて、「ミッドウェー海戦」が戦われたのである。日本海軍は投入した空母4隻とその搭載機290機のすべてを破壊され、この敗北でこの作戦は中止されたのである。

ときの連合艦隊司令長官山本五十六大将は、この方針に疑問、独自の積極的な攻勢作戦を考えていたという。

 さて少し局面を変えるが、昭和5年(1930年)に開設されたのが、航空機搭乗員の大規模な養成を目指して、茨城県霞ケ浦飛行場である。ここで中学4年程度の学力のある者が甲種を受験、高等小学校卒業程度の学力のある者の中から、特に優秀と認められ選抜された乙種、それに下士官から選抜した丙種と区分けされ、教育機関3年、普通学と軍事学の基礎教育が施された。甲種、乙種はともに14~15歳であった。旧日本海軍の海軍飛行予科練習生である。俗に「予科練」と呼ばれるものである。海軍飛行予科練習生の制服には、海軍の象徴である”桜”と”錨”が描かれた七つのボタンがつけられ、「七つボタン」は、予科練の代名詞ともなったのである。

大空に舞え、少年飛行兵!憧れの七つボタンーその七つボタンのカッコよさに少年たちは惹かれたのかもしれない。

ここで、太平洋戦争末期には、特攻隊要員の訓練が行われたのである。

さて先ほどの連合艦隊司令長官山本五十六である。

大使館付武官などで延べ5年近くを米国に住んだ経験からか、「誰よりも開戦に反対した男」といわれ、日米の国力差を痛感していたという。対米国戦争について問われると、日本に勝算はないと答えたといわれている。また、その先見性から、日独伊三国軍事同盟にも異論を唱えていたともいわれる。

少年時代に米国宣教師の元で聖書の勉強をしたことがあるといわれ、キリスト教に造詣が深く、海軍兵学校時代には座右に聖書を置いていたそうである。一方で、いくつもの名言を残したことでも知られている。

「 やってみせ、言って聞かせて、

 させてみせ、ほめてやらねば、

 人は動かじ。

   話し合い、耳を傾け、承認し、

 任せてやらねば、人は育たず。

 やっている、姿を感謝で見守って、信頼せねば、人は実らず」

 

「どんなことでも部下の失敗の責任は

 長官にある。

 下手のところがあったら、

 もう一度使う。

 そうすれば必ず立派に

 なし遂げるだろう」 

その山本は、昭和18年(1943年)4月18日、前線視察の際に、暗号を解読して待ち受けていた米軍機に撃墜され、ブーゲンビル島上空で戦死するのである。海軍甲事件といわれる。 そして、6月5日、国葬が営まれたのである。皇族・華族でない平民の国葬は当時、山本だけだったそうである。

惜しむらくは、山本生前の口舌にじっくりと「耳」を傾けてほしかったと思うのである。

 Bohemian

 福岡県小竹町に「兵士・庶民の戦争資料館」とういうのがあるとのこと。まずは記事をじっくりと読んでみます。

1931年(昭和6年)に始まる、いわゆる15年戦争で兵士が使った脚絆や背嚢、千人針などおよそ300点が陳列されているという。軍服を触ってみたり、鉄帽をかぶったり、軍靴をはいてみたり、重さや硬さなどを実感できるのだという。実際にかぶってみると、随分と重いものらしい。

館長さんの武富慈海さん(71)が、父君の登巳男さんが、1979年(昭和54年)

に開設した資料館を、現在の小竹町に移してその遺志を継いでいるものらしい。

「人が本当の意味で成熟した『市民』になることとは、歴史とりわけ戦争の歴史を知ることだ」ということだろうか。

ー末端の兵士や庶民が命を落とすことを知る、それこそが戦争の実態を知ることである」とー