ー満州の国づくり、「五族協和」「王道楽土」ー
昭和10年(1035年)当時の満州国には、3500万人弱の人々が住んでいたらしい。
その人口内訳は、漢人が7割強、満州人が16%強、朝鮮人が2%強、日本人は0.4%程度のようである。モンゴル人は不明のようである。その満州で国づくりの理想とされたのが、「五族協和」「王道楽土」であった。五族はすなわち、漢人、満州人、モンゴル人、朝鮮人、日本人であり、国民として仲良くとのこと、一方、「王道楽土」とは、古代の王が人徳で治めた安楽の地という意味であるらしい。
されば実態はどうであったか。満州国の第一国語は日本語、「国民訓」の中では天照大神への崇敬を義務づけるなど、日本色に染めたのである。
この地には、明治39年(1906年)、日露戦争で日本が獲捕した鉄道とその沿線の付属地を経営する国策会社=南満州鉄道株式会社(満鉄)が設立されたのである。
撫順炭鉱、鞍山製鉄所、大連港などの経営のほか、学校教育や調査研究も行う巨大な組織で、関東軍に協力して満州国の成立を支えたのである。
国際連盟から承認されることのなかった「満州国」だが、18ヶ国ほどが承認したらしい。日本、イタリア、スペイン、ドイツ、ハンガリー、ブルガリア、タイ、ビルマ、フィリピンなどである。アジア・太平洋戦争で日本軍が戦場としたタイやビルマ、フィリピンなどの国々も入っている。違和感を感じなくもないが、それらの国々が直接敵対国であったわけではない。英米や中国などの戦略ライン遮断のためであった。
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ー一般の人達を見捨てた「関東軍」ー
アジア・太平洋戦争末期、関東軍は、満州国にいた日系成人男性15万人を根こそぎ戦場にかりたてた。
そうして、女性や子ども、老人だけになったところにソ連軍が突如侵攻、長く抑圧されていた漢人の怒りも爆発して、日本人は略奪や暴行の餌食となって、あまりの絶望から集団自決が頻発したという。くわえて、栄養失調や発疹(はっしん)チフス、酷寒などにも見舞われて、軍人も含めた日本人は、この地で24万5400人が命を落としたという。
終戦の翌年には、軍民あわせておよそ127万人が帰国したが、一方では、中国残留孤児や残留婦人となった人達、そしてソ連軍の捕虜となった多くの男性はシベリアに抑留されたのである。
満州国政府は産業開発や行政機構の整備など状況の改善を試みたが、昭和20年(1945年)8月15日の日本敗戦のあと、18日に皇帝溥儀が退位、満州国は崩壊したのである。
関東軍は日本人をはじめとした一般の人達にたいし、なんら保護することもなく撤退したのである。
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ー敵を知らず、おのれを知らずー
流れにまかせた”百戦の暴走”、これがアジア・太平洋戦争の実相ではなかったか?
「敵を知り、おのれを知れば百戦危うからず」のはずである。
日清戦争、日露戦争、そして欧州大戦(第一次世界大戦)と戦果にあやかった日本は、今次大戦においては、勝利への過信があったのだろうか、軍備の近代化が進む国際社会への認識の欠落があったのだろうか。
はたまた、分かっていても、すでに国力が許さなかったか。それら状況の変遷とは裏腹に、満州事変からアジア・太平洋戦争の終結まで、実に15年におよぶ「転落への歴史」である。
昭和6年(1931年) 満州事変
昭和7年(1932年) 満州国建国宣言
昭和8年(1933年) 国際連盟脱退
昭和12年(1937年)盧溝橋事件【日中戦争開始】
昭和13年(1938年)国家総動員法公布
昭和14年(1939年)ノモンハン事件
昭和16年(1941年)真珠湾攻撃
昭和17年(1942年)ミッドウェー海戦
昭和18年(1943年)出陣学徒壮行会
昭和19年(1944年)神風特別攻撃隊出撃
昭和20年(1945年)東京大空襲
米軍、沖縄半島上陸
広島・長崎に原爆投下
日本国憲法公布
昭和23年(1948年)東条英機ら7人に死刑判決
昭和25年(1950年)朝鮮戦争始まる
昭和26年(1951年)サンフランシスコ講和条約
引揚げ、飢えなど数多くの苦しみを引きずりながら「戦後」が始まるのである。
『庶民の戦い』はようとして終わりを告げない。
ー敵を知らず、おのれを知らずー
流れにまかせた”百戦の暴走”、これがアジア・太平洋戦争の実相ではなかったか?
「敵を知り、おのれを知れば百戦危うからず」のはずである。
日清戦争、日露戦争、そして欧州大戦(第一次世界大戦)と戦果にあやかった日本は、今時大戦においては、勝利への過信があったのだろうか、軍備の近代化が進む国際社会への認識の欠落があったのだろうか。
はたまた、分かっていても、すでに国力が許さなかったか。それら状況の変遷とは裏腹に、満州事変からアジア・太平洋戦争の終結まで、実に15年におよぶ「転落への歴史」である。
昭和6年(1931年) 満州事変
昭和7年(1932年) 満州国建国宣言
昭和8年(1933年) 国際連盟脱退
昭和12年(1937年)盧溝橋事件【日中戦争開始】
昭和13年(1938年)国家総動員法公布
昭和14年(1939年)ノモンハン事件
昭和16年(1941年)真珠湾攻撃
昭和17年(1942年)ミッドウェー海戦
昭和18年(1943年)出陣学徒壮行会
昭和19年(1944年)神風特別攻撃隊出撃
昭和20年(1945年)東京大空襲
米軍、沖縄半島上陸
広島・長崎に原爆投下
日本国憲法公布
昭和23年(1948年)東条英機ら7人に死刑判決
昭和25年(1950年)朝鮮戦争始まる
昭和26年(1951年)サンフランシスコ講和条約
引揚げ、飢えなど数多くの苦しみを引きずりながら「戦後」が始まるのである。
『庶民の戦い』はようとして終わりを告げない。
ー敵を知らず、おのれを知らずー
流れにまかせた”百戦の暴走”、これがアジア・太平洋戦争の実相ではなかったか?
「敵を知り、おのれを知れば百戦危うからず」のはずである。
日清戦争、日露戦争、そして欧州大戦(第一次世界大戦)と戦果にあやかった日本は、今時大戦においては、勝利への過信があったのだろうか、軍備の近代化が進む国際社会への認識の欠落があったのだろうか。
はたまた、分かっていても、すでに国力が許さなかったか。それら状況の変遷とは裏腹に、満州事変からアジア・太平洋戦争の終結まで、実に15年におよぶ「転落への歴史」である。
昭和6年(1931年) 満州事変
昭和7年(1932年) 満州国建国宣言
昭和8年(1933年) 国際連盟脱退
昭和12年(1937年)盧溝橋事件【日中戦争開始】
昭和13年(1938年)国家総動員法公布
昭和14年(1939年)ノモンハン事件
昭和16年(1941年)真珠湾攻撃
昭和17年(1942年)ミッドウェー海戦
昭和18年(1943年)出陣学徒壮行会
昭和19年(1944年)神風特別攻撃隊出撃
昭和20年(1945年)東京大空襲
米軍、沖縄半島上陸
広島・長崎に原爆投下
日本国憲法公布
昭和23年(1948年)東条英機ら7人に死刑判決
昭和25年(1950年)朝鮮戦争始まる
昭和26年(1951年)サンフランシスコ講和条約
引揚げ、飢えなど数多くの苦しみを引きずりながら「戦後」が始まるのである。
『庶民の戦い』はようとして終わりを告げない。
ー敵を知らず、おのれを知らずー
流れにまかせた”百戦の暴走”、これがアジア・太平洋戦争の実相ではなかったか?
「敵を知り、おのれを知れば百戦危うからず」のはずである。
日清戦争、日露戦争、そして欧州大戦(第一次世界大戦)と戦果にあやかった日本は、今時大戦においては、勝利への過信があったのだろうか、軍備の近代化が進む国際社会への認識の欠落があったのだろうか。
はたまた、分かっていても、すでに国力が許さなかったか。それら状況の変遷とは裏腹に、満州事変からアジア・太平洋戦争の終結まで、実に15年におよぶ「転落への歴史」である。
昭和6年(1931年) 満州事変
昭和7年(1932年) 満州国建国宣言
昭和8年(1933年) 国際連盟脱退
昭和12年(1937年)盧溝橋事件【日中戦争開始】
昭和13年(1938年)国家総動員法公布
昭和14年(1939年)ノモンハン事件
昭和16年(1941年)真珠湾攻撃
昭和17年(1942年)ミッドウェー海戦
昭和18年(1943年)出陣学徒壮行会
昭和19年(1944年)神風特別攻撃隊出撃
昭和20年(1945年)東京大空襲
米軍、沖縄半島上陸
広島・長崎に原爆投下
日本国憲法公布
昭和23年(1948年)東条英機ら7人に死刑判決
昭和25年(1950年)朝鮮戦争始まる
昭和26年(1951年)サンフランシスコ講和条約
引揚げ、飢えなど数多くの苦しみを引きずりながら「戦後」が始まるのである。
『庶民の戦い』はようとして終わりを告げない。
ー蜂の巣になった本土ー
島国日本の戦場は、遥か海の彼方であった。それが昭和19年(1944年)11月から、本土に移ったのである。アメリカが日本向けに開発した大型戦略重爆撃機B29の登場によるのである。 「超空の要塞」と呼ばれたこのB29は、米軍が前線基地にした太平洋上の島から、本土爆撃のための往来が容易になったからである。
おもな大空襲の跡を見てみよう。
【大空襲】
①東京大空襲 ー昭和20年(1945年)3月10日
②大阪大空襲 ー昭和20年(1945年)3月13日
③名古屋大空襲ー昭和20年(1945年)3月19日
④橫浜大空襲 ー昭和20年(1945年)5月29日
⑤神戸大空襲 ー昭和20年(1945年)6月5日
⑥広島原爆投下ー昭和20年(1945年)8月6日
⑦長崎原爆投下ー昭和20年(1945年)8月9日
【艦砲射撃】
①釜石ー昭和20年(1945年)7月14日
②日立ー昭和20年(1945年)7月18日
③新宮ー昭和20年(1945年)7月27日
④浜松ー昭和20年(1945年)7月29日
⑤清水ー昭和20年(1945年)7月31日
【空襲・艦砲射撃・地上戦】
※沖縄ー空襲、艦砲射撃、機銃掃射、そして激しい地上戦も、一般市民の死者は10万人と言われている。
昭和20年(1945年)3月23日からは、断続的に艦砲射撃も受けたという。
※埼玉県平和資料館には、15分間で、空襲警報が流れ、防空壕に避難するなど、戦時中のある一日を疑似体験できるコーナーがあ
るそうである。
日独に共通して見て取れるのは、敵国に対する状況認識の欠落のようである。
昭和15年(1940年)の夏、ドイツはイギリス本土へ連日爆撃を加えて、屈服させようとしていた。
残念ながら、ドイツの意のままにはならなかったのである。当時のイギリスは、世界に先駆けてレーダーの開発と配備を成し遂げ、空軍によるしぶとい守戦を展開したのである。秋口には、イギリス本土上空の決戦に敗れたのである。昭和15年(1940年)6月にドイツの栄光はなりをひそめ、夏を境に、転落の局面を向かえていたと言うのである。
この9月始めには、現地へ派遣された調査団の報告から、米ルーズベルト政権は、このドイツの凋落の始まりをすでに認識していたというのである。
一方、日本陸軍は、多くの軍人をヨーロッパに駐在させていたというのだが、日本はドイツの行き詰まりを把握できず、かつまた、必ず勝つ、すぐに勝つ、気前がいいなどの”親独主義”にからめとられて、ドイツが転落を開始した瞬間にも、ドイツの対英勝利を信じて疑わなかったという。そうして、こうした最悪の状況のもとで、9月27日、「日独伊三国同盟」を結んだのである。「滅びゆく者との抱擁」とも「死の接吻」とも呼ばれるゆえんである。
はたして同盟締結の席上、どのような会話を交わしたのだろうか。
日独に共通して見て取れるのは、敵国に対する状況認識の欠落のようである。
昭和15年(1940年)の夏、ドイツはイギリス本土へ連日爆撃を加えて、屈服させようとしていた。
残念ながら、ドイツの意のままにはならなかったのである。当時のイギリスは、世界に先駆けてレーダーの開発と配備を成し遂げ、空軍によるしぶとい守戦を展開したのである。秋口には、イギリス本土上空の決戦に敗れたのである。昭和15年(1940年)6月にドイツの栄光はなりをひそめ、夏を境に、転落の局面を向かえていたと言うのである。
この9月始めには、現地へ派遣された調査団の報告から、米ルーズベルト政権は、このドイツの凋落の始まりをすでに認識していたというのである。
一方、日本陸軍は、多くの軍人をヨーロッパに駐在させていたというのだが、日本はドイツの行き詰まりを把握できず、かつまた、必ず勝つ、すぐに勝つ、気前がいいなどの”親独主義”にからめとられて、ドイツが転落を開始した瞬間にも、ドイツの対英勝利を信じて疑わなかったという。そうして、こうした最悪の状況のもとで、9月27日、「日独伊三国同盟」を結んだのである。「滅びゆく者との抱擁」とも「死の接吻」とも呼ばれるゆえんである。
はたして同盟締結の席上、どのような会話を交わしたのだろうか。
日独に共通して見て取れるのは、敵国に対する状況認識の欠落のようである。
昭和15年(1940年)の夏、ドイツはイギリス本土へ連日爆撃を加えて、屈服させようとしていた。
残念ながら、ドイツの意のままにはならなかったのである。当時のイギリスは、世界に先駆けてレーダーの開発と配備を成し遂げ、空軍によるしぶとい守戦を展開したのである。秋口には、イギリス本土上空の決戦に敗れたのである。昭和15年(1940年)6月にドイツの栄光はなりをひそめ、夏を境に、転落の局面を向かえていたと言うのである。
この9月始めには、現地へ派遣された調査団の報告から、米ルーズベルト政権は、このドイツの凋落の始まりをすでに認識していたというのである。
一方、日本陸軍は、多くの軍人をヨーロッパに駐在させていたというのだが、日本はドイツの行き詰まりを把握できず、かつまた、必ず勝つ、すぐに勝つ、気前がいいなどの”親独主義”にからめとられて、ドイツが転落を開始した瞬間にも、ドイツの対英勝利を信じて疑わなかったという。そうして、こうした最悪の状況のもとで、9月27日、「日独伊三国同盟」を結んだのである。「滅びゆく者との抱擁」とも「死の接吻」とも呼ばれるゆえんである。
はたして同盟締結の席上、どのような会話を交わしたのだろうか。
日独に共通して見て取れるのは、敵国に対する状況認識の欠落のようである。
昭和15年(1940年)の夏、ドイツはイギリス本土へ連日爆撃を加えて、屈服させようとしていた。
残念ながら、ドイツの意のままにはならなかったのである。当時のイギリスは、世界に先駆けてレーダーの開発と配備を成し遂げ、空軍によるしぶとい守戦を展開したのである。秋口には、イギリス本土上空の決戦に敗れたのである。昭和15年(1940年)6月にドイツの栄光はなりをひそめ、夏を境に、転落の局面を向かえていたと言うのである。
この9月始めには、現地へ派遣された調査団の報告から、米ルーズベルト政権は、このドイツの凋落の始まりをすでに認識していたというのである。
一方、日本陸軍は、多くの軍人をヨーロッパに駐在させていたというのだが、日本はドイツの行き詰まりを把握できず、かつまた、必ず勝つ、すぐに勝つ、気前がいいなどの”親独主義”にからめとられて、ドイツが転落を開始した瞬間にも、ドイツの対英勝利を信じて疑わなかったという。そうして、こうした最悪の状況のもとで、9月27日、「日独伊三国同盟」を結んだのである。「滅びゆく者との抱擁」とも「死の接吻」とも呼ばれるゆえんである。
はたして同盟締結の席上、どのような会話を交わしたのだろうか。