ー蜂の巣になった本土ー

島国日本の戦場は、遥か海の彼方であった。それが昭和19年(1944年)11月から、本土に移ったのである。アメリカが日本向けに開発した大型戦略重爆撃機B29の登場によるのである。 「超空の要塞」と呼ばれたこのB29は、米軍が前線基地にした太平洋上の島から、本土爆撃のための往来が容易になったからである。

 

おもな大空襲の跡を見てみよう。

 

【大空襲】

 

 ①東京大空襲 ー昭和20年(1945年)3月10日

 ②大阪大空襲 ー昭和20年(1945年)3月13日

 ③名古屋大空襲ー昭和20年(1945年)3月19日

 ④橫浜大空襲 ー昭和20年(1945年)5月29日

 ⑤神戸大空襲 ー昭和20年(1945年)6月5日

 ⑥広島原爆投下ー昭和20年(1945年)8月6日

 ⑦長崎原爆投下ー昭和20年(1945年)8月9日

 

【艦砲射撃】

  

 ①釜石ー昭和20年(1945年)7月14日

 ②日立ー昭和20年(1945年)7月18日

 ③新宮ー昭和20年(1945年)7月27日

 ④浜松ー昭和20年(1945年)7月29日

 ⑤清水ー昭和20年(1945年)7月31日

 

 

 

 

【空襲・艦砲射撃・地上戦】

 

 ※沖縄ー空襲、艦砲射撃、機銃掃射、そして激しい地上戦も、一般市民の死者は10万人と言われている。

     昭和20年(1945年)3月23日からは、断続的に艦砲射撃も受けたという。

 

 

 ※埼玉県平和資料館には、15分間で、空襲警報が流れ、防空壕に避難するなど、戦時中のある一日を疑似体験できるコーナーがあ      

  るそうである。

 

 

 

 

日独に共通して見て取れるのは、敵国に対する状況認識の欠落のようである。

昭和15年(1940年)の夏、ドイツはイギリス本土へ連日爆撃を加えて、屈服させようとしていた。

残念ながら、ドイツの意のままにはならなかったのである。当時のイギリスは、世界に先駆けてレーダーの開発と配備を成し遂げ、空軍によるしぶとい守戦を展開したのである。秋口には、イギリス本土上空の決戦に敗れたのである。昭和15年(1940年)6月にドイツの栄光はなりをひそめ、夏を境に、転落の局面を向かえていたと言うのである。

 この9月始めには、現地へ派遣された調査団の報告から、米ルーズベルト政権は、このドイツの凋落の始まりをすでに認識していたというのである。

 一方、日本陸軍は、多くの軍人をヨーロッパに駐在させていたというのだが、日本はドイツの行き詰まりを把握できず、かつまた、必ず勝つ、すぐに勝つ、気前がいいなどの”親独主義”にからめとられて、ドイツが転落を開始した瞬間にも、ドイツの対英勝利を信じて疑わなかったという。そうして、こうした最悪の状況のもとで、9月27日、「日独伊三国同盟」を結んだのである。「滅びゆく者との抱擁」とも「死の接吻」とも呼ばれるゆえんである。

 

はたして同盟締結の席上、どのような会話を交わしたのだろうか。

 

ー蜂の巣になった本土ー

島国日本の戦場は、遥か海の彼方であった。それが昭和19年(1944年)11月から、本土に移ったのである。アメリカが日本向けに開発した大型戦略重爆撃機B29の登場によるのである。 「超空の要塞」と呼ばれたこのB29は、米軍が前線基地にした太平洋上の島から、本土爆撃のための往来が容易になったからである。

 おもな大空襲の跡を見てみよう。

 【大空襲】

  ①東京大空襲 ー昭和20年(1945年)3月10日

 ②大阪大空襲 ー昭和20年(1945年)3月13日

 ③名古屋大空襲ー昭和20年(1945年)3月19日

 ④橫浜大空襲 ー昭和20年(1945年)5月29日

 ⑤神戸大空襲 ー昭和20年(1945年)6月5日

 ⑥広島原爆投下ー昭和20年(1945年)8月6日

 ⑦長崎原爆投下ー昭和20年(1945年)8月9日

 【艦砲射撃】

 ①釜石ー昭和20年(1945年)7月14日

 ②日立ー昭和20年(1945年)7月18日

 ③新宮ー昭和20年(1945年)7月27日

 ④浜松ー昭和20年(1945年)7月29日

 ⑤清水ー昭和20年(1945年)7月31日

 【空襲・艦砲射撃・地上戦】

 ※沖縄ー空襲、艦砲射撃、機銃掃射、そして激しい地上戦も、一般市民の死者は10万人と言われている。 昭和20年(1945年)3月23日からは、断続的に艦砲射撃も受けたという。

 ※埼玉県平和資料館には、15分間で、空襲警報が流れ、防空壕に避難するなど、戦時中のある一日を疑似体験できるコーナーがあ      

  るそうである。

 

 

ー見抜けなかった「ドイツの凋落」

日独に共通して見て取れるのは、敵国に対する状況認識の欠落のようである。

昭和15年(1940年)の夏、ドイツはイギリス本土へ連日爆撃を加えて、屈服させようとしていた。

残念ながら、ドイツの意のままにはならなかったのである。当時のイギリスは、世界に先駆けてレーダーの開発と配備を成し遂げ、空軍によるしぶとい守戦を展開したのである。秋口には、イギリス本土上空の決戦に敗れたのである。昭和15年(1940年)6月にドイツの栄光はなりをひそめ、夏を境に、転落の局面を向かえていたと言うのである。

 この9月始めには、現地へ派遣された調査団の報告から、米ルーズベルト政権は、このドイツの凋落の始まりをすでに認識していたというのである。

 一方、日本陸軍は、多くの軍人をヨーロッパに駐在させていたというのだが、日本はドイツの行き詰まりを把握できず、かつまた、必ず勝つ、すぐに勝つ、気前がいいなどの”親独主義”にからめとられて、ドイツが転落を開始した瞬間にも、ドイツの対英勝利を信じて疑わなかったという。そうして、こうした最悪の状況のもとで、9月27日、「日独伊三国同盟」を結んだのである。「滅びゆく者との抱擁」とも「死の接吻」とも呼ばれるゆえんである。

 

はたして同盟締結の席上、どのような会話を交わしたのだろうか。

 

ーヘンダーソン飛行場の攻撃に失敗ー

久しぶりに太平洋戦争の画集を眺めている。

日本から6,000キロの距離にある南太平洋・ソロモン諸島の激戦の地「ガダルカナル島」である。

昭和17年(1942年)9月15日のことである。ヘンダーソン飛行場の攻撃に失敗した、川口支隊の兵士達の遺体が無残な姿をみせている。

身に纏う装備の詳細は知れないが、一人は腰に大きなスコップを差している。

 昭和16年(1941年)12月8日、マレー半島コタバル上陸、その1時間50分後の、ハワイ・オアフ島真珠湾攻撃とによって、太平洋戦争が始まるのである。 

 その後の日本軍は、グアム、フィリッピン、香港、シンガポール、ラングーンと快進撃を続け、南方を制圧していくのである。こうした中、昭和17年(1942年)4月18日、米機動部隊から、ジェームズ・ドゥーリットル中佐指揮下のドゥーリットル隊が発進、Bー25を空母に搭載して、東京、川崎、横須賀など、「日本本土初空襲」が敢行されたのである。この事態を受け、山本五十六連合艦隊司令長官の意向を入れ、中部太平洋の米軍基地・ミッドゥェー島の攻撃、すなわち「ミッドウェー海戦」へ突入するのである。

 この海戦で空母4隻を失った日本軍は、ガダルカナル島へ飛行場を建設することになるのである。

マレー半島上陸、真珠湾攻撃ーその半年後ミッドウェー海戦その二ヶ月後ガダルカナル島開戦

 かくして昭和17年(1942年)8月、米軍がガダルカナル島上陸、それから半年にわたって、空海陸で激しい戦闘が繰り広げられたのである。

とりわけ地上部隊は、戦闘よりも大方の兵士がマラリアと飢えで死んでいったのである。制空・制海権を奪われ支援物資が途絶えて、ガダルカナルは餓島(飢餓の島)となったのである。戦死者のじつに3分の2にあたる一万五千人が病気・餓死者であったと言われている。

 ところで、私が眺めていた兵士の遺体は、アメリカに奪還されたヘンダーソン飛行場(もとは日本軍が建設した飛行場)の奪回に向けた戦場の無残な風景である。

 ともあれ、米軍の本格的な「反攻の開始」である。その後、戦線はニューギニアへと移ってゆくのであるが。

 ミッドウェー海戦の大敗、ガダルカナル戦の大敗によって、その後の太平洋戦争の帰趨は知れていたはずなのだが。

 ここまで、太平洋戦争開始からわずかに「8ヶ月強」である。戦争全体が3年8ヶ月と言うから、おおかたは、意味の無い消耗戦ということになる。

 しかも日中戦争は、「アジア・太平洋戦争」などと集約されて継続のままである。

 

ー「終戦のシナリオ」はついに幻のままであったー


とある出版社の、ある日の風景である。
編集長の指示はこうである。

 盧溝橋から長崎まで8年に亘ったアジア・太平洋戦争である。戦史に名を刻まれるとしたら、その陸軍大将は誰だろうか?

少ないといっても一人ぐらいはいるだろう。これが編集長氏の御説である。

 この8年の間には、大将21名、中将255名が名を列ねたという。よもや絶無はあるまいというのである。

 昭和16年11月、第16軍司令官に就任。翌年3月、オランダ領のインドネシアをわずか10日間の戦闘で攻略、その後は穏健な軍政を敷いた御仁である。日本陸軍屈指の名将と呼ばれた、陸軍大将・今村均その人である。

 オランダ軍に捕らえられていたスカルノを解放、「日本軍に協力するのも、しないのも自由です。あなたの政治信条に従ってよろしい」と申し渡したというのである。

 若き日の独立運動家、のちのスカルノ大統領である。

 そののち、昭和17年(1942年)11月、今村は第8方面軍司令官となって、ラバウルに赴任。ただちにガダルカナル将兵救出に取り組み、餓死寸前だった1万名の救出を成功させたのである。ほとんど”奇跡”であったという。

 

「名将」はいたのであるーその後の、とある出版社の編集作業は推して知るべしである。

 

 政治外交史家・北岡伸一氏によれば「悲惨な南太平洋戦線の一つの慰めは今村均の存在である」とのことである。

 今村は有能な軍人であった。一方、統治者としても、その寛大な施政で現地の人々からも敬愛されたそうである。

後年、スカルノ大統領の日本訪問の際、両名は、帝国ホテルにおいて劇的な再会を果たし、往事を忍び固い握手を交わすのである。

 

ー名将が見当たらないー

とある出版社の、ある日の風景である。編集長の指示はこうである。

 盧溝橋から長崎まで8年に亘ったアジア・太平洋戦争である。戦史に名を刻まれるとしたら、その陸軍大将は誰だろうか?

少ないといっても一人ぐらいはいるだろう。これが編集長氏の御説である。

 この8年の間には、大将21名、中将255名が名を列ねたという。よもや絶無はあるまいというのである。

 昭和16年11月、第16軍司令官に就任。翌年3月、オランダ領のインドネシアをわずか10日間の戦闘で攻略、その後は穏健な軍政を敷いた御仁である。日本陸軍屈指の名将と呼ばれた、陸軍大将・今村均その人である。

 オランダ軍に捕らえられていたスカルノを解放、「日本軍に協力するのも、しないのも自由です。あなたの政治信条に従ってよろしい」と申し渡したというのである。

 若き日の独立運動家、のちのスカルノ大統領である。

 そののち、昭和17年(1942年)11月、今村は第8方面軍司令官となって、ラバウルに赴任。ただちにガダルカナル将兵救出に取り組み、餓死寸前だった1万名の救出を成功させたのである。ほとんど”奇跡”であったという。

 

「名将」はいたのであるーその後の、とある出版社の編集作業は推して知るべしである。

 

 政治外交史家・北岡伸一氏によれば「悲惨な南太平洋戦線の一つの慰めは今村均の存在である」とのことである。

 今村は有能な軍人であった。一方、統治者としても、その寛大な施政で現地の人々からも敬愛されたそうである。

後年、スカルノ大統領の日本訪問の際、両名は、帝国ホテルにおいて劇的な再会を果たし、往事を忍び固い握手を交わすのである。