立憲民政党齊藤隆夫の「反軍演説」で大騒動ー

時流に抗した政治家がいた。ついに齊藤は登壇を決意したのである。

1940年(昭和15年)2月2日、帝国議会衆議院本会議の壇上、立憲民政党の齊藤隆夫は、国民の声を議会に届けようと「国家総動員法反対演説」から2年ぶりの登壇を決意、一時間半に及ぶ「支那事変処理を中心とした質問演説」をぶった。

 「ただいたずらに聖戦の美名に隠れて、国民的犠牲を閑却し、いわく国際主義、いわく道義外交、いわく共存共栄、いわく世界の平和、かくの如き雲をつかむような文字をならべ・・・(中略)支那事変が始まってからすでに2年半になるが、十万の英霊をだしても解決しない。どう戦争解決をするのか処理案を示せ」と。

 「国家総動員法案に質疑演説」の際には、その危険性を指摘したが、立憲政友会と立憲民政党の二大政党はこれを無視、齊藤は過労から病床に着いてしまう。そういう中での二年ぶりの登壇である。

 傍聴席は満員であったという。

一方で長期化する日中戦争の只中、ときあたかも真珠湾奇襲の前年である。

 ドイツに接近する軍部と異なって、親英米派である米内光政内閣が成立、混沌とした勢力図展開の中である。

 ただでさえ振り上げた”手”の納め時をはかるのは中々に難しい。

 一体、喧嘩の最中①相手がご免といったら止めるのか②相手が血をみせたら止めるのか③相手が傷を負ったら止めるのか④相手が死亡するまで続けるのか。卑近な例で恐縮だが、泥沼をかき分けてなお戦い続けた日本軍の究極の狙いはどこにあったのか?狙いなどそもそも存在したのだろうか。

はなから全員玉砕が目的であったわけでもなかろうが。

 日本人はかくまで”被虐を好む民族”なのだろうか。ユダヤ人・アインシュタインの提言で米国で開発され、ドイツ制圧のために準備されたといわれる原子爆弾は、結果として日本に落とされた。米国の好餌にされたのである。

 米国に格好の口実を与えてしまったのである。

そうしてただただ、虚しい精神論を拠りどころに、終戦を自ら企図すること叶わず、

徹底的に叩きのめされたのである。もはや自らの意思では終戦へ踏み出せなかったのである。

 振り上げた手の下ろし方、いつの世にも、どのような状況の中でも、あくまで冷静に分析すべきものである。

(了)

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