なぜこんなにも違う、日米両軍の視点の構え方ー

情報の入手が甘い、おおむね楽観主義、科学的整合性の欠如など、日本軍の思考法にはいささか危うさが漂うー

 日米両軍の戦争に対する構え方には、どのような違いがあったろうか。

いくつかの視点から、比較を試みてみようと思う。

① ゴールーどう着地させるかー

 日本軍ー不明瞭ー成り行き任せであったか?  米軍ー明確

②志向性  

 日本軍ー短期決戦ー国力からの判断か。    米軍ー長期決戦ー国力充分

③ 戦略決定

 日本軍ー帰納的(少しずつ積み上げる)      米軍ー演繹的(グランドデザイン)

④ 戦略オプション

 日本軍ー狭い(戦略の統合性欠如)        米軍ー幅が広い

⑤ 技術の体系

 日本軍ー一点豪華主義            米軍ー標準化(総合戦力)

⑥ 組織構造

 日本軍ー集団主義(人的なネットワーク)     米軍ーシステム・構造主義

⑦ 結節

 日本軍ー人間関係が基軸           米軍ーシステムによる統合 

⑧ 学習法

 日本軍ーシングルループ                                        米軍ーダブルループ

                  (ルールに従う)                                                  (ルールを変更する)    

⑨ 評価の仕方

 日本軍ー動機やプロセス           米軍ー結果 

 ここで、一見、戦場にはそぐわない感じもするが、シングルループ、ダブルループについて見てみたい。

 この種の資料を参考に紐解いてみる。

 先ずは、「シングルループ」の学習について。

 この学習法は、「なにをするか」という手順もしくはルールを決める。それに対して、無意識な信念や仮定などを調べたり挑戦もしないで、物事を実行するとある。

 過去の古い習慣に基づいて小さな変更のみが加えられ、多く、自分の経験に立脚する。自分の行動を優先的に思考すること、それは致命的な失敗につながる危険を伴っていると言われているのである。

 次に、「ダブルループ」についてである。

 それぞれの人間が、自分自身の観察者となって問いかける。洞察力を機能させる、どのように解決するかを。

 これらは経験を超えたものであるといい、組織の機能や構造の再設計などに修正や変

更を加えることで、機能するというのである。

 

 

 要点はこうである。

● シングルループ学習ーすでに備えている考え方や行動の枠組みに従う。

ダブルループ学習-既存の枠組みを捨て、新しい考え方や行動の枠組みを取り込む。

 すべての物事は、因果関係の連鎖であり、原因=結果の連鎖は、どんどん深まって複雑化していくというのである。

 

 いま一つ、「トリプルループ学習」がある。

以前の行動が現在の問題につながる因果関係をどのように作成したかを理解することが重要というのである。

 固定的な視点だけでは、時代を超えることは出来ないのではないか。

歴史のその時も、思考は常に「複眼」を要請していたと思うのである。

大きな壁は回り道をして越えるのがもっとも早い方法だと、その時以前の歴史に学んでいたはずだとも思うのである。

 柔軟な思考、確固たる精神の軸足、国民と不離一体の政治、国民大衆を絆が結ぶ真の愛国精神、愛すべきわが大地と自然。

 汚すまい日本の「こころ」-

 

 

戦争事始ーなぜ、それは「満州」なのかー

そもそも、満州とはどんな所なのか?”万里の長城”の北側に位置し、西にモンゴル(蒙古)、北はロシア(旧ソ連)、東を朝鮮半島と接している

 ここには、日本の3倍以上という広大な領土が広がっていた。

 ところで、日本軍の満州侵攻には、無論、地政学的な要素が大きく関係しているが、他方で、当時の日本の窮状満州侵攻を決定づけたと言えるのである。

 日清戦争日露戦争で日本が勢力下にした朝鮮半島に近く、日本陸軍の仮想敵国であるソ連と国境を接している重要な地域がこの満州なのである。

 当然のことながら、朝鮮半島、そして日本本土をソ連の攻勢から守るための最前線ということになるのである。ソ連にはもともと、不凍港を求めて南下する悲願もあったのである。

 日本にとっても、ロシアから譲り受けた南満州鉄道(満鉄)を軸に、満州新興産が生まれていたこと、広大な土地で想起される開拓の余地、石炭などの豊富な資源供給地という期待もあったろう。

 さて、この頃の日本の国内事情である。1920年(大正9年)年代から30年代初頭の日本である。

 1923年(大正12年)の関東大震災、1927年(昭和2年)の金融恐慌、そうして1929年(昭和4年)の世界大恐慌である。とりわけ、凶作の続いた農村の疲弊は相当にひどいものであったようである。

 かくして、働くに職なく、多くの日本人が移民として海外へ散っていったのである。

ところが、こうした中で、多くの移民を受け入れていたアメリカが1924年(大正13年)に受け入れを厳しく制限することになったのである。

 一方、1927年(昭和2年)には、震災手形の償還期限が迫ってくる。押し寄せる窮状への出口を求めて、対ソ連という軍事的事情も絡み、いきおい、1928年(昭和3年)張作霖爆殺事件、1931年(昭和6年)満州事変、1932年(昭和7年)満州国建国へと突き進むのである。

 これら関東軍の暴挙を軍中央は、ひたすら追認したのである。

 この年、1932年(昭和7年)には、国内において、血盟団事件五・一五事件が起き、これらのきな臭い事件は、その後、1935年(昭和10年)軍務局長・永田鉄山が暗殺された相澤事件が、そして、翌1936年(昭和11年)にはかの二・二六事件が起き、あたかも満州での関東軍の暴挙を後押しでもするかのように、軍人らによる暴動が起きたのである。

 これらの恐怖を背景に、軍人による国家統制がしっかりと足固めされたのである。

 そうして、1933年(昭和8年)5月、「タンクー休戦協定」によって、満州事変は終結する。

 満州事変から満州国建国へ、成功を収めた日本軍部は、ならばさらにと、中国南部への勢力圏を広げていったのである。

 その後の日本国は、国際連盟脱退、日独伊同盟同盟締結などで、国際的に孤立の道をひた走り、開戦半年後には帰趨の決していた太平洋戦争という奈落へ落ちるのである。

 なぜ立ち止まれなかったのか。武功をかけて意地を張り合う軍人の愚かな性癖が、着地の地点を模索する意思を潔しとしなかったのか。

 ならば、国民総動員など悲哀の拡大は、許されないのではなかったか。

それでもと敢えてというのならば、すべての時点で、確固たる「大義」が 用意されなければならない。

 

 

 

 

 

  

ビルマの戦い、そして「インパール」の悲劇へ

日本軍・ビルマ国民軍・インド国民軍✕イギリス軍・アメリカ軍・国民革命軍の戦い、「ビルマの戦い」である。

 昭和16年(1941年)アジア・太平洋戦争の開始直後から、昭和20年(1945年)の終戦直前まで続いた戦いである。イギリス領ビルマとその周辺地域をめぐる、第二次世界大戦の重大な局面の一つとされる。

 日本軍は、ビルマ独立義勇軍の協力を得てイギリス軍を急襲、首都ラングーンを陥落させたのである。ビルマ中北部の戦闘では、連合国軍に蒋介石の遠征軍が加わって激戦が展開されたが、日本軍がビルマ全土を制圧したのである。

 すべては、英米による援蒋ルート(蒋介石を支援する)の遮断が目的であった。

 イギリスは、アジアにおける植民地の確保が主たる目的であった。

 一旦は退却した連合軍であったが、昭和18年(1943年)末からは、本格的に反攻に転じたのである。その機先を制しようと、昭和19年(1944年)3月、日本軍が展開したのが悪名高い、かのインパール作戦である。兵站を無視し、その余りの無謀さゆえに日本の戦史上最悪の戦いと言われ、司令官・牟田口廉也中将に対する評価は、生還兵の多くが「畳の上で死んだなんて許せない」と憤慨したというのである。

 インパールは、インド北東部マ二プル州の中心都市であり、ビルマ・インド国境部の要地で、イギリス軍の反攻拠点であった。この作戦には、インド国民軍独立運動を刺激するという思惑もあったようである。

 ともかく、この実行の最大の難関は、川幅1,000㍍のチンウウィン川の渡河であり、加えて、標高2,000㍍級のアラカン山脈を踏破するという難行が伴うことであった。

 さらなる問題は、作戦が長期化した場合、前線部隊への補給をどうするかあった。

 当初牟田口の案はあまりにも無謀とされたのだが、敗北続きの戦局打開に、一抹の望みをかけたのだろうか。

 かくして、退却路に横たわる兵士の、膨大な数の遺体から「白骨街道」と異名される、悲惨なものになったのである。。

 指揮官のあまりの熱気にほだされて、上官が作戦を許可したという、科学的、戦略的判断というよりは、きわめて情緒的判断であったようである。

 一方、12月8日の開戦予定日に向けて準備が本格化する中、大本営ビルマ侵攻を考えていなかったされ、個々の作戦と全体計画との整合性が、誠に危ういのである。

 このビルマは、植民地計画を進めるイギリスとの間で、3度にわたる戦争を経て、イギリスの植民地になるのである。

①第一次イギリス=ビルマ戦争ー1824年(文政7年)~1826年(文政9年)

②第二次イギリス=ビルマ戦争ー1851年(嘉永4年)=下ビルマ一帯を占領

③第三次イギリス=ビルマ戦争ー1885年(明治18年)=ビルマはイギリス植民地に

こうして、ビルマは輸出用の米の生産地帯とされたのである。

 他国の富を漁る帝国主義国家と、非植民地国との明暗の対比をどう解すればよいのだろうか?

 他方、日本軍もまた、自らの補給ルート確保に向けて、タイ、ビルマ間に、山脈を越える全長およそ400㌔にもおよぶ鉄道を計画、いわゆる「泰緬鉄道」である。その作業員として、捕虜62,000人、募集して集めたタイ人数万人、ビルマ人18万人、マレー人8万人、蘭印人4万人を参加させ、雨期の間も休みなく強引に工事を進めたというのである。現場はコレラが流行し、およそ半数の人達が亡くなるという凄惨なものであったという。

 日本の軍政下で昭和18年(1943年)、東条内閣は大東亜共栄圏構想の一端として、ビルマの独立を認めたのだが、アウンサンらは国家主権のない名目上の独立に反発して、反ファシスト人民自由連盟を結成して、昭和20年(1945年)3月から抗日武装闘争を開始したのである。

 その後のビルマは、昭和28年(1948年)独立を達成するのである。

 そして、ビルマ(現ミャンマー)は、今また不安定な政情の中にある。 

 

 

ードイツ近世史に見る膨張主義と日本ー

日独に共通して見て取れるのは、敵国に対する状況認識の欠落のようである。「日独伊三国同盟」締結の暴挙ー

先ずは、ドイツの近世史を見てみよう。

1814年(文化11年)ー1870年(明治3年)のウィーン体制である。

 ナポレオン・ボナパルトの敗北の後、ゥィーン体制と呼ばれるヨーロッパの国際秩序が形成された。これによって、ドイツではオーストリアを盟主とするドイツ連邦が結成されたのである。ウィーン体制下で保守的な政治体制が続くなか、ドイツでも産業革命が急速に進展、ブルジョアが経済活動の拡大を望み、他方、知識人達によって、ドイツ人の一体化が求められるようになっていくのである。そうして、1848年(嘉永元年)革命が実行されるのである。

 その次代を担うのが鉄血宰相・オットー・フォン・ビスマルクである。

皇帝ヴィルヘルム1世の下で、ビスマルクには強大な権限が与えられて、半ば独裁的な政治が行われたという。

 ビスマルク体制」の外交は、

①ヨーロッパのどのような領土の拡張も断念する

②ドイツのあらゆる膨張主義的運動、とりわけ大ドイツ主義的運動を抑圧する

オーストリアとバルト沿岸にいるドイツ人を併合しようという願望を持たない

④他のヨーロッパ列強の植民地政策に不参加を厳守

⑤ヨーロッパ内の戦争を積極的に阻止する。

などに要約されるという。

ビスマルク外交の特徴は、このように現実的かつ抑制的であった。

 かくして、列強対立のバランスの上に、ヨーロッパの安全保障は図られたのだが、それを支えた複雑な軍事秘密同盟の手法が、後に世界大戦の要因になったというのであ

 そして、時代は1888年明治22年)ー1918年(大正7年「ヴィルヘルム2世」の施政へと移ってゆく。

 ヴィルヘルム2世は、ビスマルクを解任。勢力均衡のビスマルク体制を転換して、ドイツの膨張主義を主導するようになり、1914年(大正7年第一次世界大戦を引き起こして敗戦、自らはベルギーへ亡命するのである。

 さらに、時代はヴァイマル共和国」へ、1919年(大正8年)ー1932年(昭和7年

である。この時期は、君主制から共和制に移行。ドイツ民主党フリードリヒ・エーベルトが大統領になるのである。ヴェルサイユ条約による多額の賠償金の支払いなどで混乱。くわえて、1930年(昭和5年)の世界恐慌によって、ドイツ経済が壊滅的な打撃を被り、政界も混乱。こうした中、国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)の擡頭である。

 ナチス・ドイツヒトラー1933年(昭和8年)ー1945年(昭和20年)

以下、ヒトラーの年表を見る。

1933年(昭和8年)1月、アドルフ・ヒトラー首相に任命。

         3月、全権委任法を制定。ナチ党による一党独裁体制が確立。

1934年(昭和9年)8月、ヒンデンブルグ大統領死去、ヒトラー総統へ。

1935年(昭和10年)  徴兵制導入、軍をドイツ国防軍に改組。

         9月 ニュルンベルク法を制定して人種政策推進。非アーリア     

           人公職追放ユダヤ人の公民権剥奪。

1936年(昭和11年)  「日独防共協定」〈対ソ連〉を締結。

1938年(昭和13年)  オーストリアを併合。

1939年(昭和14年)9月、ドイツ軍ポーランド侵攻第二次世界大戦始まる。

1940年(昭和15年)春、 デンマーク、ノルウエーを占領。

         5月、ベネルクス三国を制圧。フランスを制圧。イギリスを除く西         

            ヨーロッパを征服。イギリス本土上陸作戦の前哨戦は敗北

        〈9月27日、「日独伊三国同盟」締結

1941年(昭和16年)6月、不可侵条約を破棄して、ソ連に侵攻、打倒ソ連は失敗。

            ドイツ軍は消耗。

1943年(昭和18年)2月、スターリングラード攻防戦で、致命的な大敗。

1944年(昭和19年)6月、連合軍北部ノルマンディー上陸、ドイツ軍敗色濃厚。

         12月、西部戦線で一大攻勢に出たが失敗。〈バルジの戦い〉

1945年(昭和20年)4月、ソ連軍、ベルリン総攻撃。

       4月30日、総統官邸地下壕で、ヒトラー自殺。

       5月8日、 ドイツ軍、正式に無条件降伏〈欧州戦線における終戦

  昭和15年(1940年)の夏、ドイツは連日爆撃を加えて、イギリスを屈服させようとしていたのである。残念ながら、ドイツの意のままにはならなかったのである。当時のイギリスは、世界に先駆けてレーダーの開発と配備を成し遂げ、それを踏まえて、空軍によるしぶとい守戦を展開したのである。ドイツは秋口に、イギリス本土上空の決戦に敗れたのである。昭和15年(1940年)6月にドイツの栄光はなりをひそめ、夏を境に、転落の局面を向かえていたというのである。

 

 

 この9月初めには、米ルーズベルト政権は、現地へ派遣された調査団の報告から、ドイツの凋落の始まりをすでに認識していたというのである。

 一方、日本陸軍は、多くの軍人をヨーロッパに駐在させていたというのだが、ドイツの行き詰まりを把握できず、必ず勝つ、すぐに勝つ、気前がいいなどの”親独主義”にからめとられて、ドイツが転落を開始した瞬間にも、ドイツの対英勝利を疑わなかったという。こうした最悪の状態の中で、9月27日、「日独伊三国同盟」は結ばれたのである。「滅びゆく者との抱擁」とも「死の接吻」とも呼ばれるゆえんである。

はたして、同盟締結の席上、どのような会話を交わしたのだろうか。

 

 

ー米軍の本格反攻開始、ガダルカナル戦で大敗ー

日本から6,000㌔の距離にある南太平洋・ソロモン諸島の激戦の地「ガダルカナル島」である。

  久しぶりに太平洋戦争画集を眺めていた。

昭和17年(1942年)9月15日のことである。ヘンダーソン飛行場の攻撃に失敗した、川口支隊の兵士達の遺体が無残な姿をみせている。

 身に纏う装備の詳細は知れないが、一人は腰に大きなスコップを差している。

 昭和16年(1941年)12月8日、マレー半島コタバル上陸、その1時間50分後のハワイ・オアフ島真珠湾攻撃とによって、太平洋戦争が始まるのである。

 その後の日本軍は、グアム、フィリッピン、香港、シンガポール、ラングーンと快進撃を続け、南方を制圧してゆくのである。こうした中、昭和17年(1942年)4月18日、米機動部隊から、ジェームドウドゥーリットル中佐指揮下のドゥーリットル隊が発進、B-25を空母に搭載して、東京、川崎、横須賀など「日本本土初空襲」が敢行されたのである。

 この事態を受け、山本五十六連合艦隊司令長官の意向を入れ、中部太平洋の米軍基地・ミッドゥェー島の攻撃、すなわち「ミッドゥェー海戦」へ突入するのである。

 この海戦で空母4隻を失った日本軍は、ガダルカナル島に飛行場を建設することになる。

マレー半島上陸、真珠湾攻撃ーその半年後、ミッドウェー海戦、その2ヶ月後、ガダルカナル島開戦】

 かくして昭和17年(1942年)8月、米軍がガダルカナル島上陸、それから半年にわたって、空海陸で激しい戦闘が繰り広げられたのである。

 とりわけ地上部隊は、戦闘よりも大方の兵士がマラリアと飢えで死んでいったのである。制空・制海権を奪われ支援物資が途絶えて、ガダルカナルは餓島(飢餓の島)になったのである。戦死者の実に3分の2にあたる1万5千人が、病気と餓死者であったと言われている。

 私が眺めていた兵士の遺体は、アメリカに奪還されたヘンダーソン飛行場(もとは日本軍が建設した飛行場)の奪回に向けた戦場の無残な風景である。

 米軍の本格的な「反攻の開始」である。その後は、戦線はニューギニアへと移ってはゆくのではあるが。 ミッドウェー海戦の大敗、ガダルカナル戦の大敗によって、その後の太平洋戦争の帰趨は知れていたはずである。

 ここまで、太平洋戦争開始からわずかに「8ヶ月強」である。結果的には、戦争全体が3年8ヶ月と言うから、おおかたは、意味の無い消耗戦だったことになる。

 一方、日中戦争は「アジア・太平洋戦争」などと集約されて継続のままである。

 

 

 

 

 

ー「終戦のシナリオ」はついに幻のまま、虚しい戦闘は続行したのである。 

 

 

ー二大「戦跡」に見る太平洋戦争ー

伊江島は東洋一と言われた飛行場が建設されたため、米軍の主要な攻撃目標とされたのである。

沖縄伊江島である。昭和20年(1945年)4月16日、米軍が上陸、すぐさま飛行場は占領されたのである。この伊江島の戦い(~21日)では、一般住民およそ1,500人を含むおよそ3,500人が犠牲になったと言われている。多くの住民が、「斬り込み隊」など組織だった戦闘にかり出されたほか、「集団自決」に追い込まれた人達もいたのである。

 米軍の攻撃を受けて、伊江村(いえそん)の建物はことごとく焼き払われたのだが、惨状の中、かろうじて原形をとどめたのが伊江村公益質屋(跡)」である。

 この施設は、昭和4年(1929年)政府の融資を受けて設立された村営の金融機関である。この時期は世界大恐慌のさなかで、村の財政や村民の生活が苦しかった時代である。貧民救済の福祉施設であった。

 鉄筋コンクリート2階建てで、当時のものとしては頑丈な造りであったようであるが、戦前のコンクリート建造物として注目されているのである。

 凄まじい米軍の攻撃を今に伝える無数の弾痕や砲弾の跡が、生々しく残されているという。〒905-0501 沖縄県国頭郡伊江村字東江上である。

 この伊江島の戦いでは、伊江島地区隊、第二歩兵隊第一大隊、独立連射砲一個中隊、

独立機関銃一個中隊、第50飛行場大隊、第502特設警備工兵隊、独立整備隊、野砲小隊、そして地元の伊江島防衛隊、伊江島青年義勇隊、伊江島女子救護班、婦人救護隊が戦闘に参加した。

 尊い命が犠牲になったのである。

 第二次世界大戦沖縄戦で犠牲となった守備隊将兵およそ2,000人、そして住民およそ1,500人、合計3,500人が芳魂之塔(ほうこんのとう)に合祀されている。

〒905-0504 沖縄県国当郡伊江村西江前である。

 追記悲報:「伊江島米軍弾薬輸送船爆発事故」

 昭和23年(1948年)8月6日、午後5時過ぎの伊江島の波止場である。

米軍の弾薬輸送船が接岸していたのだが、沖縄戦当時の未使用弾や不発弾の積み込み中、荷崩れが原因で大爆発事故が起ったのである。

 当時の沖縄はアメリカの軍政府統治下で、伊江島では”不発弾処理”が行われていたのである。折悪しく、地元の連絡船が入港していて多くの人が出迎えに来ていたのが災を広げた。死者107人、負傷者70人の悲報である。

 米軍統治下の沖縄で最大の犠牲者を出す事故となったのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

ー二大「戦跡」に見る太平洋戦争ー

昭和19年(1944年)7月のサイパン陥落の後、本土爆撃と本土決戦が、いよいよ現実味をおびてくる。

ことは、「政府中枢機能移転」の問題である。そもそも太平洋戦争の以前から、広大な関東平野の端に位置し、海からも近い首都「東京」は著しく防衛機能が脆弱であると指摘されていたのである。ここに、本土決戦を想定して、海岸から離れた場所への中枢機能の移転計画が進められるのである。

 移転先は、長野県埴科郡松代町(現長野市松代地区)などの山中である。

①象山 ②舞鶴山 ③皆神山 の3ヶ所である。ここに地下坑道が掘られたのである。

これが「松代大本営地下壕」である。このうち現在、象山地下壕(ぞうざんちかごう)が一般公開されているという。

 ● 象山地下壕 ー政府、日本放送協会、中央電波局。

 ● 舞鶴山地下壕ー付近の地上部に、天皇御座所、皇后御座所、宮内省(現宮内庁)。

 ● 皆神山地下壕ー備蓄庫

3つの地下壕の長さは10㎞にも及ぶと言われ、また、善光寺平一帯に関連施設が造られるという「一大遷都」計画であった。

  くわえて、上高井郡須坂町(須坂市)鎌田山に送信施設、埴科群清野村(現長野市)妻女山に受信施設、長野市茂菅の善光寺温泉と善白鉄道トンネルに皇族の住居が計画されたのである。

 皇居には、昭和10年(1935年)頃に鋼鉄扉の防空室が作られたが、大型爆弾に耐えられないとして、のちに御文庫と呼ばれる「大本営防空壕」が新に完成する。ここで、松代大本営の完成を待つのである。

 かくして戦況悪化の中、昭和18年(1943年)9月30日、閣議および御前会議において「今後採るべき戦争指導の大綱が決定。「帝国戦争遂行上印度洋方面において絶対確保すべき要域を・・・・」ー「絶対国防圏」である。

 戦況は、昭和19年(1944年)7月サイパン島陥落である。帰趨はすでに決していたのである。責任をとった東条英機は、この7月18日、内閣総理大臣を辞職するのである。マリアナ沖海戦とサイパンの戦いをはじめとして、マリアナパラオ諸島の戦いで大敗を喫した日本は防戦一方。絶対国防圏は破られたのである。

 絶対国防圏とは本来、本土攻撃を回避するためのいわば”防波堤”ではないのか。

ここが落ちるようなことがあれば、「戦争継続は断念」と判断すべきではなかったのか。結果は、本土空襲、原爆投下である。

 この日本民族の自虐性を、現代の我々は、どう解すべきなのだろうか。