日本戦史の極点「シンガポール占領」
太平洋戦争における日本軍部の、戦争遂行の基本方針は、インドネシア(当時のオランダ領東インド)の石油を中心とした、東南アジアの資源の確保し、そして自給体制を構築したうえで、アメリカやイギリスと向き合うというものであった。
当然に、南方資源地帯からの輸送ルート地域と、その周辺地域のアメリカやイギリスを排除する必要に迫られます。
それゆえに、太平洋戦争の幕開けは、正確には、真珠湾攻撃(昭和16年(1941年)12月8日=現地時間12月7日)ではなく、その1時間50分前に日本軍部隊は、当時のイギリス領マレー半島・コタバル(現在のマレーシア)に上陸を開始しているのである。続いてタイのシンゴラ、パタニなどにも上陸。マレー半島の南に浮かぶ小島・シンガポールを目指したのである。イギリスにとって最も重要な植民地・インドとアジアとの結節点であり、ここには、イギリス東洋艦隊の拠点が置かれ、これが強力な要塞になっていたのである。そのため日本軍は比較的防御の緩慢なマレー半島を南下して、シンガポールを目指すというルートを計画したのである。
イギリス軍との激戦を突破、強烈なスピードで南下、1月11日には、イギリス領マレー半島・クアラルンプールを占領。1月31日、マレー半島最南端・ジョホールバルに到達。激戦を経て、ついに2月15日、イギリス軍は無条件降伏したのである。。
停泊中のアメリカ艦隊を攻撃した真珠湾攻撃と違い、作戦行動中のイギリスは、戦艦の威力が海戦の勝敗を決定づけるという当時の認識を揺るがしたのである。イギリス東洋艦隊の主力艦「プリンス・オブ・ウェールズ」は、爆弾2発、魚雷6本を受け、「巡洋戦艦レパルス」は魚雷5本を受け、沈没したのである。それらはイギリス海軍の誇りであった。イギリスの首相・チャーチルは「・・・これ以上のショックを受けたことはなかった」とその回想録に書いているといわれる。加えてフィリピン、香港などの東アジア・東南アジアの多くの拠点への一斉攻撃を展開したのである
ところで、シンガポール陥落以前の東洋艦隊基地は、イギリスにとって極東司令部の一部をなす枢要なものであったのだが、そもそもイギリスの極東防衛計画は2つの仮定に基づいているという。
その一つが、西太平洋における連合軍勢力としてのアメリカ合衆国が、シンガポールの東洋艦隊とともにあること、そして二つ目が、日本帝国海軍の技術的能力と攻撃力への過大な評価。この二つの前提に立って、日本艦隊と戦うのはアメリカ海軍であると構想。これが昭和16年(1941年)12月7日、真珠湾攻撃によって、マレー防備におけるアメリカ海軍の支援は望めなくなり、加えて、アメリカ陸軍フィリピン守備隊による救援は不可能になったのである。日本の戦力は予想を上回るものだったという。
日本戦史の極点「真珠湾攻撃」~太平洋戦争へ
昭和16年(1941年)12月8日午前3時20分、日本海軍の行ったアメリカ合衆国ハワイ州オアフ島の真珠湾軍港への奇襲攻撃であり、ここから太平洋戦争が始まったのである。
大東亜戦争における南方作戦の一環、イギリスへ対峙するマレー作戦に次いで開かれた戦端である。アメリカ太平洋艦隊の戦艦部隊は一時的なるものの、その戦闘能力を完全に喪失、アメリカ軍の艦隊に対し、開戦初頭に大きな打撃を与え、南方作戦を援護する目的を達成したのである。
そもそも、オアフ島真珠湾のアメリカ海軍基地は明治41年(1908年)に設置され、日本海軍には脅威であった。オアフ島要塞と呼ばれ、戦艦を威圧する16インチ砲・砲台のほか、上陸可能な死角もなかった。明治43年(1910年)11月には、海軍少佐の山本英輔が斎藤実海軍大臣に真珠湾の港湾部図面を提出しているのである。当初、真珠湾から日本へ向けて侵攻してくるアメリカ艦隊を、日本近海において艦隊での決戦を想定した。
これに対し、昭和14年(1939年)に連合艦隊司令長官に就任した海軍大将・山本五十六は別の構想を描いていたのである。山本にはアメリカにおける長期の滞在経験があり、加えて海軍軍政や航空畑を歩いた経験から、航空攻撃によって一挙に決着をつけることが必定であると構想し、すでに昭和3年(1928年)にはハワイ攻撃を提唱していたのである。
昭和16年(1941年)1月26日ー27日、戦艦長門艦上において、第11航空艦隊参謀長の大西瀧次郎少将あて、ハワイ奇襲作戦の立案について「日米開戦の已む無きに至った場合、余程思い切った戦法を取らなければ・・・第一、第二航空戦隊飛行機隊の全力で痛撃を・・・米国艦隊の西太平洋への進行を不可能ならしむる・・・自ら指揮官を拝命し、全力を挙げる決意・・・いかなる方法によって実施するか研究を・・・」と、依頼したのである。
かくして、昭和16年(1941年)11月26日、千島列島の単冠湾(ひとかっぷわん)から出撃、「赤城」「加賀」「飛竜」「蒼竜」「翔鶴」「瑞鶴」の6隻の航空母艦を中心として、戦艦2隻、重巡洋艦2隻、軽巡洋艦1隻、駆逐艦9隻それに補給艦で編成した機動部隊がハワイへ進出。
現地時間7日(日)午前7時55分から2回、360機の雷撃機、水平爆撃機、戦闘機で真珠湾在泊中のアメリカ太平洋艦隊艦艇、飛行場などを奇襲したのである。
軍港に在泊していた戦艦8隻中、3隻が沈没、1隻が横転、残りは大破。軽巡洋艦3隻、駆逐艦3隻、この他の艦艇も沈没もしくは大破したのである。航空機は180機が炎上、アメリカ将兵2300名が戦死した。日本側の損害は、航空機29、特殊潜航艇5隻、指揮官は南雲忠一中将であった。はからずも、日本側の最後通牒が渡されたのは、攻撃が終わったのちの12月9日(アメリカ時間8日)、駐アメリカ大使野村吉三郎によって、ワシントンD・Cで国務長官コーデル・ハルに手交されたという。
この日の議会において、ルーズベルト大統領は「汚辱の日として忘れることがない12月7日」と宣戦演説を行っている。真珠湾攻撃は、今なお、アメリカの国防戦略にきわめて大きな影響を与えているといわれる。
アメリカは、昭和16年(1941年)12月8日(日本時間)日本の真珠湾攻撃を受けて参戦。そして12月11日、ドイツ、イタリアの宣戦をうけて、ヨーロッパ方面にも参戦したのである。
日本戦史の極点「盧溝橋事件」とその前後
そもそもの起こりは、朝鮮東学党の乱への日本と清国の対応、支配権を争った両国の戦争である。戦争国日本は、遼東半島や台湾の割譲など戦果を収めるが、日清講和条約(下関条約)締結のわずか6日後の明治28年(1895年)4月23日、ロシア、ドイツ、フランスの、いわゆる三国干渉を受けて、遼東半島放棄を決定、還付の代償として清国から庫平銀3000万両を得ることになる。ただ、この勝利によって、極東における帝国主義諸国との対立や葛藤に巻き込まれることになってゆくのである。
こののち、日本は、朝鮮および満州の支配権をめぐる対立から、日露戦争を戦いこれを勝利。
そうして、関東軍は、満州の中国からの独立を計るため、昭和3年(1928年)6月4日、中華民国陸海軍大元帥張作霖の爆殺事件を起こすのである。
続いて、昭和6年(1931年)9月18日の柳条湖事件(満州事変)、昭和7年(1932年)3月の満州国建国、昭和8年(1933年)5月3日のタンクー停戦協定で中国本土からの分離が暗黙の了解になってゆく。
しかし、昭和12年(1937年)、中国の国民政府を代表する蒋介石は、「満州を失ってから、すでに6年、我々の忍耐にも限界があるとして、徹底抗戦」を表明、この7月の盧溝橋事件を端緒にして、日中戦争に突入していったのである。
8月には戦火は上海に飛び火、さらに日本軍は、国民政府の首都南京にも爆撃、昭和15年(1940年)3月には、重慶を脱出して南京に戻った、国民政府の要人汪兆銘に呼びかけて南京政府を樹立、中国を代表する唯一の政府とし、満州国を加えて日満支三国共同宣言を発し、東亜新秩序の完成を内外に宣したのである。
一方、華北では共産党のは八路軍の攻勢によって、日本の掲げる「長期持久態勢」は、中国という広大な土地や膨大な人口には抗すべくもなく、他方で、蒋介石政府を支援する、いわゆる援蒋ルート(ビルマ・ロード委)へのアメリカ、イギリスに対する批判の噴出から、昭和16年(1941年)ついに日本は真珠湾攻撃に踏み切って、太平洋戦争を開始するのである。
そもそもの淵源には、日本において、明治政府成立からまもなく朝鮮進出政策が重要な対外政策とされ、明治8年(1875年)には江華島(こうかとう)事件を引き起こし、翌1876年には朝鮮に対して不平等な日朝修好条規を結ばせたことにある。
朝鮮では、豊臣秀吉の朝鮮侵略による民族的苦痛が長く記憶されているのだという。
※江華島事件=明治8年(1875年)9月20日、朝鮮半島の西沿岸で、水路測量の名目で示威活動をしていた日本艦「雲揚」の端艇が江華島付近で、チョウォチン(草芝鎮)砲台から砲撃されて応戦した事件。
日本戦史の極点「満州国」②
満州国には、都市部で近代的な生活を営んだ、行政機関の関係者や日本人相手に商売などをしていた人たちの一方で、北部の奥地に開拓民と呼ばれた人たちがいた。およそ27万人といわれている。
開拓民には三つの類型がある。
一つは、武装移民(試験移民)と呼ばれるもので、日本への反抗勢力に対する治安維持のため、在郷軍人から募集された。治安の悪さや貧しい食事、屯懇病(ホームシック)などで4分の1が退団・戦病死したといわれている。
※在郷軍人=現役として軍務に服していない軍人。第二次世界大戦が終わるまで、予備役、後備役、退役軍人といった。
二つ目は、一般開拓民で、昭和11年(1936年)に日本政府が決定した大量農業移民計画に基づいて、多くが、貧しかった村や里から分かれて移住した。
三つめは、満蒙開拓青少年義勇軍である。16歳から19歳の男子が、茨城県内の訓練所を経て満州に渡って、現地の訓練所で義勇隊を編成した。3年の訓練の後、「鍬(くわ)の戦士」として国防を兼ねてソ連国境近くに入植した。
そして、アジア・太平洋戦争開始に伴って、関東軍の精鋭部隊が南方戦線に投入されて弱体化。この状況に対応するため、満州国にいる日系成人男性15万人を招集、根こそぎ動員するのである。残された女性や子ども、老人に突然ソ連軍が侵攻、命がけの逃避行が始まるのである。ソ連軍だけでなく、それまで抑圧されていた漢人らが怒りを爆発させ、日本人は略奪・暴行の的とされたのである。絶望のなかの集団自決、栄養失調、発疹チフス、酷寒などで次々と命を落としていったのである。
「五族協和」「王道楽土」をスローガンに中国東北部に展開した満州国は、明治39年(1906年)に設立された国策会社・満鉄(南満州鉄道株式会社)による撫順炭鉱、鞍山製鉄所、大連港などの経営でその成立が支えられたのである。
日本の生命線と位置付けられた満州国は、国際連盟では承認されず、日本は、国際連盟を脱退することになるのである。
産業開発、貨幣制度の統一、行政機構の整備、日本人開拓民の入植などさまざま試みを行った満州国政府であったが、昭和20年(1945年)8月9日のソ連軍侵攻、15日の日本敗戦を受けて、18日に皇帝溥儀が退位、崩壊したのである。13年5ヶ月の「国家」であった。
ソ連軍侵攻の際には、日本人をはじめとして一般の人々を保護することなく、関東軍は撤退したのである。
「国家総動員法」は、退避の際には機能しなかったのである。
軍隊とは何であるか・・・。
Bohemian
2015年に広島大の特任教授に赴任した、エジプト生まれのマーヒル・エルシリビーニーさん(61)が、中沢啓治さんの漫画「はだしのゲン」全10巻をアラビア語に翻訳し、10巻目を2月に出版したという。2014年、友人の勧めで「はだしのゲン」をじっくり読んだ、防火水槽の中で子どもを抱えて死んでいる母親などの、被爆直後の描写にショックを受けたという。
「中東の人たちは、原爆の被害をほとんど知らない。それを伝えるのが私の使命です」と。
カイロ大学で日本語を学び、広島大大学院に留学、帰国後に母校の教員となった人である。
「この作品にウソはない」と翻訳を決めたのだという。
日本人として、その高貴な使命感に心うたれるばかりである。
ところで、日本にも、「はだしのゲン」に思い入れの強いお方がいる。
女性講談師の「神田香織」さんである。
2代目神田山陽門下で、スヴェトラーナ・アレクシェーヴィッチの「チェルノブイリの祈り」を講談化するなどした社会派の講談師である。
機会を捉えて是非、口舌に触れてみていただきたい講談師なのである。
日本戦史の極点「満州国」再見①
昭和4年(1929年)10月、ニューヨーク・ウォ―ル街に端を発した世界大恐慌の影響で、日本経済は不況のどん底にあった。一方、農村部は天候不順による作物の不作で、人口を賄う生産がおぼつかない状況にあった。このような情勢の中で、日本は、対外膨張と軍国主義を選択するようになっていったのである。
このころ、中国の東北地方「満州」は、それまで日本の保持している、満鉄の経営権や関東州の租借権など、いわゆる満州権益が、この地方を治めていた張学良政権によって、圧迫されていた。
一方、日本人には、ここ満州は、明治37年(1904年)~38年(1905年)の日露戦争において、戦死者10万人という犠牲を払って手にしたものという特別な思いがあったのである。
こうした背景を受けて、満鉄警備のために駐屯した関東軍は、張学良政権の放逐そして不況からの脱出を満州占領で実現しようと、昭和6年(1931年)9月に行動を起こした.。満州事変である。
かくして、翌年3月に満州国が建国されるのである。
漢族、満州族、朝鮮族、モンゴル族など多民族国家であった満州国は、昭和16年(1941年)に総人口約四千三百万人といわれ、日本人はおよそ百万人に過ぎなかったという。
少数の日本人が、満州国の実権を握っていたのである。
最高権力者は、清朝最後の皇帝・愛新覚羅溥儀であったが、行政機関の総務庁の権限は関東軍が握っていたの。総務庁は、人・物・金を集中的に管理する機関で、構成員8割を日本人が占めた。議会のなかったこの国で、「満州国国民」の意向の、国政への反映はなかったという。
「満州国前史」について触れてみる。
1894年(明治27年)~1895年 日清戦争で日本が遼東半島を得るが、ロシア、ドイツ
フランスの干渉で清に返還。
1904年(明治37年)~1895年 日露戦争の勝利で日本がロシアの持つ旅順・大連の租
借権、長春~旅順の鉄道経営権を握る。
1912年(明治45年/大正元年) 中華民国成立。清朝が滅亡。
1915年(大正4年) 日本が中国に21ヵ条の要求。旅順・大連の租借期限や
南満州の鉄道権益の99年延長などを承認させる。
満州国の位置と国土
現在の中国の東北部。国土は今の日本の約3倍。
中国東北部の歴史
古代から実権を握る民族が激しく交代、長く支配し続けたことがなかった。
やがて満州人による王朝・清が軍政を敷いて、東部を満州人、西部をモンゴル人、南部を漢人の居住の区域としたが、19世紀末に、ロシアが鉄道の敷設権を獲得して、鉄道が完成、沿線の農産物が大量に売りさばけるようになる。
閑話休題
そもそも「安全なうちに、『安全』を確保しておくのです」とは、自動車教習所で教官から教わった言葉である。周囲の状況が安全を担保しているうちに、最終的な安全を確保しておくことである。
戦時下はどうであったか。
大本営作戦課が絶対国防圏を言い出したのが、昭和18年(1943年)9月だという。千島ーマリアナ諸島ーニューギニア西部に一つの線を引いて、絶対にこれを守ると言い出したという。この時、第四航空軍司令官の寺本熊一は、制空権がなければみんな点(孤島)になって線にはならないと発言。
戦後、当時軍令部指導班長だった大井薫は、マリアナ、カロリンの線に後退してみても航空戦力不足では、敵を食い止められない。名前だけもっともらしく「絶対国防圏」とつけても絵に描いた虎の役にもたたないと回想したという。
なぜ、この時期にこういう構想が出てくるのだろう。ましてや絶対などありえない。相手がある以上、あくまでも相対的なものだろう。
あえて言うならば、本土から遠い順に、第一防衛圏、第二防衛圏といった、状況適時に対応できうる柔軟な構想であるべきである、さらに言えば、今頃になって何を考えているのかということである。理想を言えば、開戦当初、せめて昭和17年(1942年)6月5日、ミッドウェー海戦大敗北の時期だろう。この敗北は、太平洋戦争(大東亜戦争)開始、マレー作戦、真珠湾攻撃、昭和16年(1941年)12月8日のわずかに半年後である。
このさらに先に、一方で泥沼化する日中戦争があり、他方で、広大な太平洋上の島嶼に多くの兵士の貴い人命を散らし、この様な無謀かつ無計画な暴走が昭和20年(1945年)8月15日の終戦まで続いたのである。終末には、生還の期すべくもない、神風特攻隊や人間魚雷「回天」など、非人道極まりない手段に堕しいったのである。
それぞれの意見の対立、意地の張り合い、最終決裁者の不在、戦況の実態を直視しようとしない軍人の哀れ、節度をわきまえない暴走など。戦史の表層には出てきにくい、個々の精神の内奥に巣くう「卑小な迷妄」ではなかったか。
一日でも本土決戦を遅らせるために、硫黄島の戦闘はあったというのだが。
その一日が、原爆投下の一因とは言えないだろうか。
「五族協和」「王道楽土」
「兵隊さんは命がけ、私たちは襷がけ」
「守れ職場は我らが陣地」
「撃ちてし止まん」
「欲しがりません、勝つまでは」
そして、
「国家総動員」「戦陣訓」である。
これらの言葉の帰結するところは、ただに「悲哀」であった。
美談を一つ。陸軍軍人、根本博中将である。
駐蒙軍司令官として、終戦後も侵攻を止めないソビエト軍の攻撃への、必死の反撃を指揮、蒙古自治政府内に滞在していた在留邦人4万人を救ったのである。そうして、内蒙古を脱出した4万人の日本人が引揚船に乗るまで、食料や衣服の提供などに尽力をしたという。
Bohemian
「ねぇ。
三つの約束、結ばない?
遠慮しない。
比べない。
羨(うらや)まない。」
26歳、コピーライターの女性の言葉だそうである。
人間社会のあらゆる局面に通底する、
素晴らしい言葉だと思う。
添えておきたい格言がある。
「格物致知」-物事の本質を理解し、自らの知識を極限まで深めること、とある。
戦史と世相ーシリーズ⑥ 「本土決戦~一億玉砕」昭和20年(1945年)
昭和20年(1945年)6月23日、義勇兵役法公布。徴兵対象を拡大、新たな兵役義務が課された。
15歳以上~60歳以下の男子と、17歳以上~40歳以下の女子に義勇兵役、国民義勇戦闘隊へ編入。
沖縄戦では、義勇兵役法施行に先駆けて、「鉄血勤皇隊」「少年護郷隊」として、14歳~17歳の少年兵が招集され戦死。女子も戦闘隊に編入できるとされた。
小磯内閣のいう「一億玉砕」の具現である。
この慶良間列島の占領によって、米軍は沖縄本島上陸への後方支援基地を確保したのである。
米軍の慶良間攻撃は、1300隻の巨大船団、後方補給部隊を含め、54万人が沖縄に押し寄せたといわれ、上陸前には、本島への激しい艦砲射撃を一週間継続、ノルマンディー上陸作戦をはるかに上回るといわれている。
義勇兵役法公布の一月前、5月24日には、日本陸軍の特殊部隊「義烈空挺隊」が連合軍に占領されていた沖縄の嘉手納飛行場と読谷飛行場に攻撃を行っている。
鉄血勤皇隊=太平洋戦争の末期、沖縄県で動員された14~16歳の学徒による日本軍史上初の少年兵部隊である。正規部隊に併合、戦闘に参加し多くの戦死者を出したといわれる。
ひめゆり学徒隊=沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校の教師と生徒で構成され、看護訓練によって作られた女子学徒隊。両校の女子生徒222人と教師18名の合計240名、沖縄陸軍病院に看護要員として動員された。敗色濃厚の昭和20年(1945年)6月18日に突如解散命令が出され、翌19日からのおよそ一週間で多数の犠牲者を出し、最終的に、240名のうち136名が死亡。そのうちの10名が集団自決したという。
最大の犠牲者を出した伊原第三外科壕後に戦後、慰霊塔「ひめゆりの塔」が建立される。
この年の出来事をさらってみよう。
1月20日、 大本営、本土決戦を決定。
2月16日、 アメリカ艦隊、硫黄島に徹底砲撃を開始。19日、上陸を開始。
3月6日、 国民勤労動員令が公布。
3月12日、 「アンネの日記」のユダヤ人少女アンネ・フランクがベルゲン・ベル ゼン収容所で殺される。15歳。
3月14日、 B29が大阪を大空襲、13万戸が焼失。
3月17日、 硫黄島の守備隊が全滅、2万3000人が戦死。
3月25日、 沖縄・座間味島民が集団自決。
3月25日、 硫黄島の日本軍守備隊玉砕。
4月4日、 神奈川県日吉地区へ、B29による大空襲。
4月7日、 14時23分、戦艦大和撃沈される。
4月28日、 イタリア、ムッソリーニ銃殺刑に処せらる。
4月30日、 ヒトラー、秘書エヴァ・ブラウンとベルリンで自殺。
5月8日、 ドイツの無条件降伏文書が発効。ヨーロッパの第二次大戦終了。
5月14日、 最高戦争指導会議で、終戦工作が始まる。
5月24日、 空襲で都区内の大半が全滅、皇居、大本営も罹災。
6月6日、 最高戦争指導会議の御前会議で、豊田軍令部総長ら戦争継続を主張。
6月21日、 生き残った沖縄守備隊や学徒兵らが最後の総攻撃、全滅。
6月22日、 天皇が最高戦争指導会議の構成員懇談会席上で、終戦工作を指示。
7月26日、 対日ポツダム宣言が、米英中共同で発表され、日本は黙殺。
8月6日、 8時15分17秒、B29エノラ・ゲイが広島にウラ二ウム型原爆「リトル・ボーイ」を投下。
8月9日、 11時2分、B29ボックス・カー号、長崎にプルトニウム型原爆「ファット・マン」を投下。
8月10日、 午前2時半、御前会議で、ポツダム宣言受諾を決定。
8月14日、 御前会議でポツダム宣言受諾を改めて決定、天皇が終戦証書を発布。
8月15日、 天皇が終戦勅書をラジオ放送(玉音放送)、太平洋戦争終結。
8月19日、 ソ連が潜水艦L12を日本のすべての船舶を攻撃するため出撃。
8月30日、 マッカーサー元帥、連合軍最高司令官として厚木に上陸。
9月2日、 東京湾内停泊の米戦艦ミズーリ号上で、日本全権代表重光葵外相が降伏文書に調印。アジア・太平洋戦争が正式に終結する。
9月11日、 GHQが東条英機ら39人の戦争犯罪人の逮捕を命令。
9月23日、 インドネシアの日本軍武装解除のため、イギリス・オランダ軍がバタビアに入る。
10月9日、 米よこせの風呂敷デモを契機に、「主婦の会」が発足。
10月11日、 マッカーサーが幣原首相に、憲法の自由主義化、婦人解放など5大改革を指令。
10月11日、 戦後初の企画映画「そよかぜ」が封切り、並木路子の「りんごの唄」が大流行。
10月29日、 日本勧業銀行が第1回宝くじを発売、1等10万円。
11月16日、 戦後初の大相撲が開幕。
11月26日、 69連勝の大横綱、双葉山が引退。年寄「時津風」。
12月17日、 B級、C級戦犯の裁判が開始。
12月22日、 労働組合法が公布。