戦史と世相ーシリーズ① 「夢は満蒙開拓へ」昭和4年(1929年)~昭和10年(1935年)

 

大連、三国干渉でロシアが租借

 1895年(明治28年)4月23日にフランス、ドイツ帝国ロシア帝国の三国が日本に対して行った勧告、これが三国干渉である。すなわち日清戦争=1894年(明治27年)~1895年(明治28年)、日本と清国の間で行われた戦争=日本の勝利で日本に割譲された遼東半島(この先端部に大連がある)を清国に返還することを要求する内容であった。ロシアはこの干渉で清国を救済、その見返りとして大連のある遼東半島の租借権を得たのである。そもそも、「冬でも凍結しない港」はロシアの願望であり、ロシアは巨額の資金を投入して東清鉄道を建設してシベリア鉄道と連結させて、港の整備を開始した。

 下関講和会議で遼東半島の割譲を日本が要求していることを知った列強は、清国の衰退に乗じて「清国の分割」を進めてきたが、露骨な領有権要求は差し控えてきた。日本の要求は、列強間の「暗黙の了解を無意味にするものであり、ドイツやロシアは、日本の要求は容認できないと考えたのである。同じ4月8日、イギリスでは「極東問題」に対する基本方針が話し合われ日清講和には、不干渉を採用することが決定した。

 こういう考えはどうだろう。現下日本の選挙制度は、「小選挙区制」であり、本来二大政党の拮抗が待たれるものである。

 そうした中、7年8ヵ月の長きにわたる一強他弱が幕を下ろした。この間、野党勢力が長くなりを潜めたのである。

 長期政権の足元で、いくつもの眉を潜める出来事があった。一方で、そうはいっても

野党ではな~との声が続く。民主党3年半の本来責められるべきは、頭でっかちのガキの集団であったことだと思う。

 かつて池田隼人は、「寛容と忍耐」といった。おそらくは、大事は容易にはならんと思っての言葉だろう。

 どうぞ野党の皆さん、真に世俗を受け入れ、清濁併せ飲み、ふところを深くしてたたれよ。その上で時を待つ”忍耐”が求められるのだろう。

 つまるところ、この日本に、勢力の拮抗しうる「もう一つの勢力」が必要なのである。どちらが勝った、あちらが負けた。そんな小さな問題ではない。

必要なものならば作らなければならない。これは政治家集団の努力は無論必定だが、国民自らが作りあげるべきものだ。一度や二度の失政(?)で野党を隅に追いやって済む問題ではないのだ。

 ときの政権に疑念が湧けば、いつでも交代可能な勢力が「予備軍」として存在すること、この存在を国民自らが作らなければならないことについて、かかる政治文化・政治風土を根付かせることがどうしても必要なのである。

 普段の行動に「まだ足りぬ何か」を捻りださなければならない。